【明石 06】源氏、紫の上に消息

すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ。参れりし使は、今は、「いみじき道に出《い》で立ちて悲しき目をみる」と泣き沈みて、あの須磨にとまりたるを、召して、身にあまれる物ども多く賜ひて遣はす。睦《むつ》ましき御|祈禱《いのり》の師ども、さるべき所どころには、このほどの御ありさま、くはしく言ひ遣はすべし。入道の宮ばかりには、めづらかにて蘇《よみがへ》るさまなど聞こえたまふ。二条院のあはれなりしほどの御返りは、書きもやりたまはず、うち置きうち置きおし拭《のご》ひつつ聞こえたまふ御|気色《けしき》、なほことなり。

「かへすがへすいみじき目の限りを見尽くしはてつるありさまなれば、今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど、『鏡を見ても』とのたまひし面影の離るる世なきを、かくおぼつかなながらや、とここら悲しきさまざまの愁はしさはさしおかれて、

はるかにも思ひやるかな知らざりし浦よりをちに浦づたひして

夢の中《うち》なる心地のみして、覚めはてぬほど、いかにひが言《こと》多からむ」と、げにそこはかとなく書き乱りたまへるしもぞ、いと見まほしき側目《そばめ》なるを、いとこよなき御心ざしのほど、と人々見たてまつる。おのおの、古里《ふるさと》に、心細げなる言伝《ことつ》てすべかめり。小止《をや》みなかりし空のけしき、なごりなく澄みわたりて、あさりする海人《あま》どもほこらしげなり。須磨はいと心細く、海人《あま》の岩屋もまれなりしを、人しげき厭《いと》ひはしたまひしかど、ここは、また、さまことにあはれなること多くて、よろづに思し慰まる。

現代語訳

源氏の君は、すこし御心が落ち着かれると、京への御文をいくつも差し上げなさる。

京から参った使は、今は、(使)「ひどい道中をやってきて、悲しい目を見ることだ」と泣き沈んで、あの須磨にとどまっていたのを、源氏の君はお召しになって、身に余る多くの品々をお与えになって京に遣わす。

懇意にしていらっしゃる御祈祷の師たちや、しかるべき方々の所には、最近のご様子を、くわしく言い遣わすのだろう。

入道の宮(藤壺)にだけは、辛くも急死に一生を得たようすなど、お伝えなさる。

二条院の姫君(紫の上)の、しみじみと心深い、あの時のお手紙へのお返事は、すぐに書きおおせることもおできにならず、書いては置き書いては置きして涙を拭いながらお手紙をお書きになっていらっしゃる。そのご様子は、やはり他の人に対するものとは違っている。

(源氏)「重ね重ねひどい目の限りを見尽くしてしまった次第ですから、今はこれまでと、俗世を逃れる気持ばかりが強くなりますが、『鏡を見ても』と貴女がおっしゃったその面影が目の前から離れる時はないので、こうしてお逢いできず気にかかったまま永久にお別れすることになるのかと、そう思うとその他の悲しいさまざまな愁いはとりあえず置いておけという気になりまして、

(源氏)はるかにも…

(はるかに貴女に思いを馳せることです。見も知らなかった須磨の浦からさらに遠くの明石の浦まで浦伝いに移動して)

夢の中の出来事のような気持ばかりがして、まだ目が覚めないのですから、どんなにかわけのわからない言葉が多いでしょう」と、なるほど、取りとめもなく乱れ書きされているようすは、まったく、傍から覗いてみたくなるほどであるので、たいそう深いお志の深さでいらっしゃるのだと、お供の人々はお察し申し上げる。

おのおの、故郷に、心細いような手紙を送るのだろう。少しも雨が止むことのなかった空のけしきは、その名残もなく澄みわたって、漁をする海人たちも意気さかんそうである。

須磨はひどく心細く、岩陰に海人のすまいもまれであったが、源氏の君は、ここ明石の浦は、人が多く出入りすることだけはお嫌いになったが、ここはまた、格別に風情あることが多くて、万事、御心が慰められるのだ。

語句

■参れりし使 紫の上からの使(【明石 01】)。 ■めづらかにて蘇る 稀有なことに急死に一生を得たこと。落雷を生き延びたことをいう。 ■二条院のあはれなりしほど 紫の上からの手紙。「あさましく小休みなころのけしきに…」(【明石 01】)。 ■鏡を見ても 紫の上の歌。「別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし」(【須磨 03】)。 ■かくおぼつかなながらや 下に「別れたてまつらむ」などが省略。 ■はるかにも… 手紙の地の文から歌に続く。「知らざりし浦」は須磨。須磨から遠く浦伝いして明石の浦に移動したということ。 ■あさりする海人ども 「あさりする与謝のあま人ほこるらむ浦風ぬるく霞み渡れり」(恵慶集)。歌意は漁をする与謝の漁師は意気が上がっているようだ。浦風がぬるく吹いて一面霞み渡っている。与謝は丹後国(現京都府与謝郡)の地名。 ■須磨はいと心細く 「かの須磨は、昔こそ人の住み処《か》などもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて、海人《あま》の家だにまれになど聞きたまへど、」(【須磨 01】)。 ■人しげき厭ひはしたまひしかど 「人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける」(【明石 05】)。

朗読・解説:左大臣光永

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