【関屋 01】空蝉、常陸より帰京の途中、逢坂で源氏一行と行き合う

伊予介《いよのすけ》といひしは、故院|崩《かく》れさせたまひてまたの年、常陸《ひたち》になりて下りしかば、かの帚木《ははきぎ》もいざなはれにけり。須磨の御旅居もはるかに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へきこゆべきよすがだになくて、筑波嶺《つくばね》の山を吹き越す風も浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて年月重なりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ常陸は上りける。

関《せき》入る日しも、この殿、石山に御|願《ぐわん》はたしに詣《まう》でたまひけり。京より、かの紀伊守《きのかみ》などいひし子ども、迎へに来たる人人、この殿かく詣でたまふべし、と告げければ、道のほど騒がしかりなむものぞとて、まだ暁《あかつき》より急ぎけるを、女車《をむなぐるま》多く、ところせうゆるぎ来るに、日たけぬ。打出《うちいで》の浜来るほどに、「殿は粟田山《あはたやま》越えたまひぬ」とて、御前の人々、道も避《さ》りあへず来こみぬれば、関山にみな下《お》りゐて、ここかしこの杉の下《した》に車どもかきおろし、木隠《こがく》れにゐかしこまりて過ぐしたてまつる。車などかたへは後《おく》らかし、前《さき》に立てなどしたれど、なほ類《るい》ひろく見ゆ。車|十《とを》ばかりぞ、袖口物の色あひなども漏り出でて見えたる、田舎びずよしありて、斎宮の御下り、何ぞやうのをりの物見車思し出でらる。殿もかく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、みな目とどめたり。

九月晦日《ながつきつごもり》なれば、紅葉《もみぢ》の色々こきまぜ、霜枯《しもがれ》の草、むらむらをかしう見えわたるに、関屋よりさとくづれ出でたる旅姿どもの、いろいろの襖《あを》のつきづきしき縫ひ物、括《くく》り染《ぞめ》のさまも、さる方にをかしう見ゆ。御車は簾《すだれ》おろしたまひて、かの昔の小君、今は右衛門佐《うゑもんのすけ》なるを召し寄せて、「今日の御|関迎《せきむか》へは、え思ひ棄てたまはじ」などのたまふ。御心の中《うち》いとあはれに思し出づる事多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔の事忘れねば、とり返してものあはれなり。

行くと来《く》とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ

え知りたまはじかし、と思ふに、いとかひなし。

現代語訳

伊予介といった人は、故院がお隠れになった翌年、常陸介になって任国に下ったので、あの箒木(空蝉)も伴われて一緒に下った。

源氏の君が須磨で詫び住まいされていることもはるか遠い国で聞いて、人知れずおしのび申し上げないではなかったが、伝え申し上げるべき手立てすらなくて、筑波嶺の山を吹き越す風もたよりない心地がして、ほんの少しの風のたよりもないまま年月が重なってしまった。

いつまでと期限が決まってもいなかった君の侘住まいであったが、君は京に帰り住みなさって、そのまさに翌年の秋、常陸介は帰京したのだった。

常陸介一行が逢坂の関に入るその日に、この源氏の大臣が、石山寺にお願ほどきに参詣なさった。京から、あの紀伊守などいった子供たちや、迎えに来ている人々が、この源氏の大臣がこうしてご参詣になるようです、と告げたので、道中騒がしくなるだろうということで、まだ暁のうちに急いだが、女車が多く、道をびっしり塞いでゆっくり進んで来るので、昼になってしまった。

打出《うちいで》の浜に来るころに、「殿は粟田山をお越えになった」といって、前駆の人々が、道中も避けられないほど来てごった返したので、人々は関山にみな下って座り、あちこちの杉の下に多くの車の轅をはずして停め、木隠れに座って畏まって源氏の君の御行列をお通し申し上げる。

車などは一部は後ろにし、一部は前に立てなどしているが、それでもやはり一族は多いと見える。車が十台ほど、袖口や襲の色合いなども漏れ出でて見えているのが、田舎びず、風情があって、斎宮の御下りか何かの折の物見車が思い出される。

殿(源氏の君)もこうして世に栄ていらっしゃるそのめでたさに、数しれない先駆たちが仕えているが、人々は皆この女車に目をとどめている。

九月末なので、紅葉がさまざまな色をまぜあわせ、霜枯の草が、濃く薄く趣深く見渡せるところに、関屋からさっと崩れ出したような旅衣を着た人々が、色とりどりの襖の、それにふさわしい刺繍や、くくり染めのようすも、旅の装束として風情あるものに見える。

源氏の君の御車は簾をお下ろしになって、あの昔の小君、今は右衛門佐であるのを召し寄せて、(源氏)「今日私が逢坂関まで貴女をお迎えに参ったことは、お忘れになりますまいな」などとお伝えになる。源氏の君は、御心の中に、たいそうしみじみと思い出す事が多かったが、一通りの言付けしかできず、かいのないことである。女(空蝉)も、人知れず昔の事を忘れていないので、その頃を思い出してしみじみと胸打たれる。

(空蝉)行くと来と…

(常陸に行く時も帰ってくる時も、せきとめることができずあふれる涙を、絶えぬ関の清水と人は見るのでしょう)

この気持を殿はお知りにならないだろう、と思うにつけ、ひどくかいのないことである。

語句

■伊予介 空蝉の夫。 ■常陸になりて 常陸は上総・上野とともに親王任国。常陸介は実質上の常陸守。 ■帚木 空蝉。源氏と箒木の歌を読みあったことによる(【帚木 15】)。夕顔巻に、夫伊予守の伴をして下っていく空蝉と源氏の別れが描かれた(【夕顔 21】)。それが12年ぶりの再開となる。 ■須磨の御旅居 源氏の須磨下向。空蝉の伊予下向の三年目の三月。 ■筑波嶺の山を吹き越す風も 「甲斐が嶺を嶺越し山越し吹く風を人にもがもや言づてやらむ」(古今・東歌)の甲斐が嶺を筑波嶺に置き換えて引く。 ■伝へ 都から聞こえてくる源氏の噂。 ■京に帰り住みたまひて 源氏は須磨下向三年目に帰京。 ■関 逢坂の関。近江(滋賀県)と山城(京都)との境にある逢坂山の南の峠に設けられた古代の関所。伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関と並んで、三故関と称される。大化の改新翌年の詔で設置されたと見られるが、詳細不明。関所が廃止された後も歌枕として残り続けた。主に「逢う」と掛詞にされ、一般に「逢坂の関を越える」は男女が関係を持つことの暗示。「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」(小倉百人一首十番 蝉丸)、「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」(小倉百人一首六十二番 清少納言)。「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば/またあふ坂の関はこえなむ」(『伊勢物語』六十九段 狩の使)。 ■石山 石山寺。滋賀県大津市。瀬田川のほとりにある。紫式部が『源氏物語』の着想を得た伝説で知られる。 ■紀伊守 常陸介の前妻の子(【帚木 12】)。 ■打出の浜 大津市膳所の北方。琵琶湖のほとり。『平家物語』で木曾義仲が討ち死にし今井四郎兼平が自害した。 ■粟田山 京都の東端の山。ここを越えて山科から逢坂関を越えて大津に到る。 ■御前の人々 源氏の先駆をつとめる人々。 ■関山 逢坂関周辺のある山地。 ■かきおろし 牛をはずして轅をおろし車を停めておくこと。 ■袖口物の色あひ 簾の下から車中の女の着る衣の袖口や襲の色合いが見えている。 ■斎宮の御下り 賢木巻に斎宮の御下りのようすが描かれていた。「出車どもの袖口色あひも、目馴れぬさまに心にくきけしきなれば」(【賢木 07】)。 ■めずらしさに 「めずらしい」とは地方官一行の人々からの視線。 ■九月晦 秋の終わりの時期。 ■むらむら 濃く薄く。もしくはあちこち群をつくって。 ■襖 狩衣。 ■括り染 絞り染め。糸でしばった状態で染め、染め終わってから糸をほどくとじわっと滲んだような模様になる。参考「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなひに水くくるとは」(小倉百人一首十七番)。 ■小君 空蝉の実弟。源氏と空蝉のなかだちをつとめた。 ■右衛門佐 右衛門府の次官。従五位上相当。 ■御関迎へ 偶然の再開だが、いかにもわざわざ迎えにきたように言うのが源氏の口の達者さ。 ■おほぞうにしてかひなし 「おほぞう」は一通り。人目が多いので一通りの言付けしかできないのである。 ■行くと来と… 「せき」は「涙を塞《せ》きとめる」の意と「関」をかける。参考「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」(小倉百人一首十番 蝉丸)。 ■いとかひなし 前の源氏の「かひなし」と、この空蝉の「かひなし」かけ響き合って、いっそう虚しい空気をなす。

朗読・解説:左大臣光永

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