【薄雲 08】大堰邸にて 源氏、明石の君と合奏 明石の君の好ましき心遣い

かしこには、いとのどやかに、心ばせあるけはひに住みなして、家のありさまも、やう離れめづらしきに、みづからのけはひなどは、見る度《たび》ごとに、やむごとなき人々などに劣るけぢめこよなからず、容貌《かたち》、用意あらまほしうねびまさりゆく。「ただ世の常のおぼえにかき紛れたらば、さるたぐひなくやはと思ふべきを、世に似ぬひがものなる親の聞こえなどこそ苦しけれ。人のほどなどはさてもあるべきを」など思す。はつかに、飽かぬほどにのみあればにや、心のどかならずたち帰りたまふも苦しくて、「夢のわたりの浮橋か」とのみうち嘆かれて、箏《さう》の琴のあるを引き寄せて、かの明石にて小夜更《さよふ》けたりし音《ね》も、例の思し出でらるれば、琵琶をわりなくせめたまへば、すこし掻《か》き合はせたる、いかでかうのみひき具しけむと思さる。若君の御ことなどこまやかに語りたまひつつおはす。

ここはかかる所なれど、かやうにたちとまりたまふをりをりあれば、はかなきくだもの、強飯《こはいひ》ばかりはきこしめす時もあり。近き御寺《みてら》、桂殿《かつらどの》などにおはしまし紛らはしつつ、いとまほには乱れたまはねど、またいとけざやかにはしたなく、おしなべてのさまにはもてなしたまはぬなどこそは、いとおぼえことには見ゆめれ。女も、かかる御心のほどを見知りきこえて、過ぎたりと思すばかりの事はし出でず、また、いたく卑下《ひげ》せずなどして、御心おきてにもて違《たが》ふことなく、いとめやすくぞありける。おぼろけにやむごとなき所にてだに、かばかりもうちとけたまふことなく、気高き御もてなしを聞きおきたれば、「近きほどにまじらひては、なかなかいとど目馴れて人|侮《あなづ》られなることどももぞあらまし。たまさかにて、かやうにふりはへたまへるこそ、たけき心地すれ」と思ふべし。明石にも、さこそ言ひしか、この御心おきて、ありさまをゆかしがりて、おぼつかなからず人は通はしつつ、胸つぶるることもあり、また、面だたしくうれしと思ふことも多くなむありける。

現代語訳

かの山里では、たいそうのどかに、心用意があるようすに暮らしていて、家のありさまも、世間離れがして珍しいのに加えて、女君自身の雰囲気などは、見るたびごとに、高貴な女性たちなどに劣るほどの違いも大してなく、容貌、心用意も申し分なく成熟してゆく。(源氏)「ただ世間一般の受領の娘と思われるぐらいで目立たないなら、身分の高い者が受領の娘を妻とする例もなくはないと思うだろうが、世にまたとない偏屈者である親(明石の入道)の評判などが困ったことよ。素性などは、あれでよいのだが」などとお思いになる。ほんの少しの間の、満足できないていどの逢瀬だからだろうか、心あわただしくお帰りになるのも辛いので、「夢のわたりの浮橋か」とばかり、ついため息をおつきになって、箏の琴のあるのを引き寄せて、あの明石で夜更けに聞いた音も、例によってお思い出しになって、琵琶を弾くようにしつように女君におすすめになると、女君がすこし掻きならし合わせるのを、(源氏)「どうやってこれほどまでにさまざまな技芸を身につけたのだろうか」とお思いになる。若君の御ことなどこまごまと、繰り返しお話になっていらっしゃる。

ここ大堰はこのような寂しい所ではあるが、こうしてお泊りなさる折々があれば、ちょっとした菓子、強飯などは召し上がる時もある。近くの御寺、桂殿などにお出ましになるようにお繕いつつ、たいそう本気でこの女君(明石の君)にお心乱れたりはなさらないものの、またひどくそっけなく、相手にばつが悪い思いをさせるような、通りいっぺんのお扱いなどはなさらない。こういう所などは、源氏の君に対する世間の評判はすこぶる格別であるようにお見受けされる。

明石でも、入道は、ああは言ったものの、こうした源氏の君のご意向や、ご様子を知りたがって、お互いに不安がないように人を通わしつつ、胸がつぶれる思いをする時もあり、また、名誉が立って嬉しいと思うことも多くあるのだった。

女も、こういう源氏の君の御心のほどをお見知り申し上げて、源氏の君が「出過ぎている」とお思いになるようなふるまいはせず、また、そうかといってひどく卑下などもせずに、源氏の君のご意向にはずれることもなく、たいそう好ましい態度なのである。

並々ならず高貴な御方の所でさえ、源氏の君は、これほどくつろいでいらっしゃることはなく、高貴なおふるまいをなさっていると耳にしているので、(明石)「源氏の君のお側近くでお仕えしては、かえってひどく見慣れてしまって、人から軽く見られることなどもあるだろう。まれに、このにようにわざわざお出ましいただくのが、面目が立つ気がする」と女君(明石の君)は思うらしい。

語句

■家のありさま 大堰邸は風情あるさまに源氏が指導してつくらせた。ただし風情がありすぎて明石の君が立ち去り難くは思わないていどに(【松風 08】)。 ■ただ世の常の… 以下「あるべきを」まで文意不明瞭なため諸説紛糾。ここではこう取る。一、身分の高い者が受領の娘を妻とすること自体は問題はない。ニ、しかし明石の君の父入道の偏屈者という評判が問題だ。三、父入道は大臣の子であり、それは私が愛する女性の素性として申し分ないのだが… ■さるたぐひ 身分の高い者が受領の娘を妻とする例。 ■世に似ぬひがものなる親 明石の入道(【若紫 03】)。 ■人のほどなどは 父入道が大臣の子であるという素性。 ■さてもあるべきを 源氏が寵愛する女性として、素性などは問題がないと。 ■夢のわたりの浮橋か 「世の中は夢のわたりの浮橋かうち渡りつつ物をこそおもへ」(奥入)。 ■箏の琴 十三絃の琴。 ■かの明石にて 源氏と明石の君が琴を和して別れを惜しんだ夜のこと(【明石 17】)。 ■いかでかうのみひき具しけむと 源氏はこの時はじめて明石の君の琵琶を聴いた。明石の君は箏の伝授で醍醐天皇より三代目に当たる父入道の教えを受けている。その上琵琶もたくみである。その多芸であることに源氏は驚く。「ひき」は接頭語。「弾き」にかける。 ■強飯 蒸籠で蒸した米。旅先で携行用などにした。 ■きこしめす 「食ふ」の尊敬語。 ■近き御寺 嵯峨野の御堂。 ■けざやかに 「けざやか」ははっきりしている。ここではそっけないこと。 ■過ぎたりと思すばかりの… 出過ぎたふるまいはせず、かといって卑下するでもない。明石の君のバランスの取れた特性。 ■おぼろけに 「おぼろけ」は並ひととおり。ここでは「おぼろけならず」と同義。 ■かばかりも 大堰邸にいる時ほどは。 ■近きほどにまじらひては 二条院で外の女房方とまじってご奉公しては。 ■たけき心地 心たけく面目が立つような、うれしい気持ち。 ■さこそ言ひしか 「さ」は入道が明石の君を送り出す時、「今日永く別れたてまつりぬ」などと言ったこと(【松風 04】)。 ■胸つぶるること 姫君を二条院に引き渡したことなど。 ■面だたしくうれしと思ふこと 大堰邸を改築したこと、姫君の袴着のことなど。

朗読・解説:左大臣光永

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