【竹河 08】大君、男皇子を産む 人々に憎まれる

年ごろありて、また男御子《をとこみこ》産みたまひつ。そこらさぶらひたまふ御方々にかかる事なくて年ごろになりにけるを、おろかならざりける御宿世など世人《よひと》おどろく。帝は、まして限りなくめづらしと、この今宮をば思ひきこえたまへり。おりゐたまはぬ世ならましかば、いかにかひあらまし、今は何ごともはえなき世を、いと口惜しとなん思しける。女一の宮を限りなきものに思ひきこえたまひしを、かくさまざまにうつくしくて数そひたまへれば、めづらかなる方にて、いとことに思《おぼ》いたるをなん、女御も、あまりかうてはものしからむと、御心動きける。事にふれて安からずくねくねしき事|出《い》で来《き》などして、おのづから御仲も隔たるべかめり。世の事として、数ならぬ人の仲らひにも、もとよりことわりえたる方にこそ、あいなきおほよその人も心を寄するわざなめれば、院の内の上下《かみしも》の人々、いとやむごとなくて久しくなりたまへる御方にのみことわりて、はかない事にも、この御方ざまをよからずとりなしなどするを、御せうとの君たちも、「さればよ。あしうやは聞こえおきける」と、いとど申したまふ。心やすからず、聞き苦しきままに、「かからで、のどやかにめやすくて世を過ぐす人も多かめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕の筋は思ひよるまじきわざなりけり」と、大上《おほうへ》は嘆きたまふ。

現代語訳

何年か経って、御息所(大君)はまた男皇子をお産みになる。冷泉院にお仕えしていらっしゃる御方々(弘徽殿女御と秋好中宮)にはこうした事(妊娠)は長年なかったのに、並々でない冷泉院と御息所との前世からのご縁であると、世間の人もおどろく。帝(冷泉院)は世間の人以上にめったにないことと、この今宮を愛おしく存じ上げていらっしゃる。ご在中の皇子ご誕生であったら、どれほどかいのあることだったろう、今は何事もはりあいのない世であると、ひどく残念にお思いになるのだった。これまで冷泉院は女一の宮(弘徽殿女御腹)を限りなく大切に思い申し上げていらしたが、こうしてさまざまに可愛い御子の数が増えてこられては、すばらしいことお思いになって、実に格別に冷泉院がその御子たちに愛情を注いでいらっしゃるのを、女御(弘徽殿女御)も、冷泉院の御息所(大君)に対する寵愛がこうまで深くては不愉快なことにもなるだろうと、御心が動くのだった。何かにつけて不穏で、ひねくれた不快なことが起こったりなどして、自然と、御息所(大君)と女御(弘徽殿女御)のご関係も隔たっていくようだ。世間の事として、物の数にも入らない身分の人の関係でも、もともと本妻の立場にある人にこそ、関わりのない多くの人も心を寄せることであるようだから、院(冷泉院)の中の上下の人々は、たいそう長い間、院(冷泉院)の寵愛を得ていらした御方々(弘徽殿女御・秋好中宮)にばかり贔屓して、ちょっとした事につけても、この御方(大君)のことを、よからぬものとして取り沙汰にしたりなどするのを、御兄の君たちも、「それごらんなさい。私たちが申し上げたことが間違っておりましたか」と、ますます前尚侍の君(玉蔓)に申し上げられる。前尚侍の君(玉蔓)は、心穏やかでなく、聞くのもつらくて、(玉蔓)「出仕しても気苦労ばかり抱えるのではなくて、穏やかに無難に世を過ごす人も多いようであるのに。帝の婦人となっても最上位の中宮にでもなるのでなければ幸せではなく、宮仕えなど考えてはならぬことだった」と、大上(玉蔓)はため息をおつきになる。

語句

■年ごろありて 五年が経過したらしい。 ■そこらさぶらひたまふ御方々 弘徽殿女御、秋好中宮、その他の人々。 ■御宿世 冷泉院と大君との前世からのつながり。 ■おりゐたまはぬ 冷泉院は跡取りの皇子がいないことを悲観して退位した(【若菜下 07】)。 ■いかにかひあらまし 冷泉院は在位中であればこの宮を東宮にも立てたいと思う。 ■女一の宮 弘徽殿女御腹(【匂宮 04】)。これまで女一の宮が冷泉院の唯一の子であったから弘徽殿女御の地位はゆるぎなかった。しかし皇女につづけて皇子が生まれたので弘徽殿女御の地位は危なくなる。 ■さまざまに 女宮についで男宮が生まれた。 ■あまりかうては 大君に対する冷泉院の寵愛があまり深くなっては。 ■くねくねしき事 ひねくれた意地悪なことを言ったりした利すること。 ■ことわりえたる方 道理を得た方。もともとの正妻側。 ■あいなき 「あいなし」は関わりがない。 ■御せうとの君たち 左近中将と右中弁。 ■あしうやは聞こえおきける 左近中将らが大君が冷泉院に参院することに反対して母玉蔓に訴えたこと(【竹河 09】【同 15】)。 ■心やすからず 玉蔓は大君の冷泉院参院について思案を重ね断行した。にもかかわらず現状はうまくいっていないのでつらい。 ■かからで 出仕して気苦労をするのではなくて。 ■限りなき幸い 帝の最上の中宮になること。 ■大上 玉蔓。二人の娘が成人し結婚したので「上」と呼ばれる。その母だから「大上」。

朗読・解説:左大臣光永