【橋姫 14】薫、帰り際に大君と歌の贈答

峰の八重雲思ひやる隔て多くあはれなるに、なほこの姫君たちの御心の中《うち》ども心苦しう、何ごとを思し残すらむ、かくいと奥まりたまへるもことわりぞかしなどおぼゆ。

「あさぼらけ家路《いへぢ》も見えずたつねこし槙《まき》の尾山は霧こめてけり

心細くもはべるかな」とたち返りやすらひたまへるさまを、都の人の目馴れたるだになほいとことに思ひきこえたるを、まいていかがはめづらしう見ざらん。御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例のいとつつましげにて、

雲のゐる峰のかけ路《ぢ》を秋霧のいとど隔つるころにもあるかな

すこしうち嘆いたまへる気色浅からずあはれなり。

何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに心苦しきこと多かるにも、明《あ》かうなりゆけば、さすがに直面《ひたおもて》なる心地して、「なかなかなるほどに承りさしつること多かる残りは、いますこし面《おも》馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいてもてなしたまふべくは、思はずにもの思しわかざりけり、と恨めしうなん」とて、宿直人《とのゐびと》がしつらひたる西面《にしおもて》におはしてながめたまふ。

「網代《あじろ》は人騒がしげなり。されど氷魚《ひを》も寄らぬにやあらむ、すさまじげなるけしきなり」と、御供の人々見知りて言ふ。あやしき舟どもに柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに行きかふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じごとなる世の常なさなり。我は浮かばず、玉の台《うてな》に静けき身と思ふべき世かは、と思ひつづけらる。

硯《すずり》召して、あなたに聞こえたまふ。

「橋姫の心を汲《く》みて高瀬さす棹《さを》のしづくに袖ぞ濡れぬる

ながめたまふらむかし」とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持てまゐる。御返り、紙の香《か》などおぼろけならむは恥づかしげなるを、ときをこそかかるをりは、とて、

「さしかへる宇治の川長《かはをさ》朝夕のしづくや袖をくたしはつらむ

身さへ浮きて」と、いとをかしげに書きたまへり。まほにめやすくものしたまひけり、と心とまりぬれど、「御車|率《ゐ》て参りぬ」と、人々騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」などのたまふ。濡れたる御|衣《ぞ》どもは、みなこの人に脱ぎかけたまひて、取りに遣《つか》はしつる御|直衣《なほし》に奉りかへつ。

現代語訳

峰にかかる八重の雲が、宮へ思いを馳せる気持ちをたいそう隔てているのが悲しいので、中将(薫)は、やはりこの姫君たちのそれぞれの御心の内を思うと心苦しく、「姫君たちは物思いのすべてを尽くしていらっしゃるのだろう。こうしてひどく引きこもっていらっしゃるのも道理だな」などとお思いになる。

(薫)「あさぼらけ……

(夜がほのぼのと明ける頃、家路も見えないでいる。訪ねてきた槇の尾山は霧がたちこめてしまっている)

心細くもございますよ」と、たち戻って出発しかねいていらっしゃるようすを、都の人で、こうした貴人を見馴れた者でさえやはり実に格別に思い申し上げているのだから、まして宇治の人々はどれほど珍しく見ないことがあろうか。大君は、御返事をお伝え申し上げにくく思っているので、いつものように実につつましげな様子で、

(大君)雲のゐる……

(雲がかかっている峰のけわしい路(父が修行している場)を、秋の霧がいよいよ隔てる季節でございますこと)

すこしため息をついていらっしゃる様子はたいそう風情がある。

これといって面白いところは見えないあたりであるが、なるほど心苦しいことが多いにつけても、このまま夜が明けて明るくなってゆくと、やはり直接顔を見合わせるのは気まずい感じがして、(薫)「かえって何も伺わないほうがよかったと思えるほど途中で話を切り上げられてしまいました。その名残多さは、もう少し親しくなってから、恨み言も申し上げるべきでしょう。それにしても、こうして私を世間並の人のよう待遇なさるようなのは、心外なことで、ものの道理をわきまえていらっしゃらないなと、恨めしく思います」といって、宿直人が調えていた西面にいらしてぼんやり物思いに沈んでいらっしゃる。

「網代は人が騒がしそうにしているようです。ですが氷魚も近づかないのでしょうか、わびしそうな様子です」と、御供の人々は網代のことをよく知っていて言う。見すぼらしい多くの舟に柴を刈って積み、めいめい何ということもないそれぞれの稼業に行き交っているありさまは、はかない水の上に浮かんでいるようなもので、誰も思えば同じようなこの世の無常さである。「自分は水の上に浮かばず、玉の台に心静かに身をすえている」と思うことのできる世だろうか、そんなことはないとお思いつづけられる。

中将(薫)は硯を召して、あちら(大君)へ手紙をお書き申し上げなさる。

(薫)「橋姫の……

(宇治橋姫の心をお察しして、浅瀬をゆく舟の棹のにしづくに舟人が袖を濡らすように、私は涙に袖が濡れてしまいました)

物思いに沈んでいらっしゃることでしょう」と、宿直人にお持たせになった。宿直人はとても寒そうに、鳥肌が立っている顔で御返事を持って参った。御返事は、紙の香などぼんやりしているのはこちらが気後れするほどであるが、大君はせめてこういう折には返歌の早いことだけを取り柄にしようということで、

(大君)「さしかへる……

(棹をさしかえて行き来する宇治の渡し守は朝夕の棹のしづくで袖が濡れてしまいましょう。そんなふうに私も朝夕の涙で袖が濡れているのですよ)

その身さえ宇治川の水に浮かんで」と、実に風情ある感じに書いていらっしゃる。しっかりと見栄えがするようにお書きになったものだと、心惹きつけられたが、「御車を連れて参りました」と、人々が騒がしく申し上げるので、宿直人だけを召寄せて、(薫)「八宮がお帰りになられるころに、必ずまた参ろう」などとおっしゃる。濡れている多くのお召し物は、みなこの人(宿直人)に脱いで肩におかけになって、取りに遣わした御直衣にお召し替えになった。

語句

■峰の八重雲思ひやる隔て… 「思ひやる心ばかりはさはらじを何へだつらむ峰の白雲」(後撰・離別羇旅 橘直幹)、「白雲の八重にかさなるをちにしても思はむ人に心へだつな」(古今・離別 貫之)。 ■あさぼらけ… 「槇の尾山」は宇治川のほとりの山。 ■例のいとつつましげ 前に大君が「ひき入りながらほのかに」(【橋姫 11】)応じたとあった。それを受けて「例の」という。 ■雲のゐる… 「峰のかけ路」は父八宮の仏道修行の場。 ■げに心苦し 前に「この姫君たちの御心の中ども心苦しう」とあったのを受けて「げに」。 ■さすがに直面 やはりいくらなんでも直接顔をあわせるのは決まりが悪いの意。 ■いますこし面馴れて 今後仲良くしてくださいねと求める。 ■宿直人 前に「御供の人は、西の廊に呼びすゑて、この宿直人あひしらふ」(【橋姫 09】)とあった。 ■氷魚 鮎の稚魚。 ■すさまじげなるけしき 稼業にいそしむ庶民のわびしい姿。「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」(『紫式部日記』)。 ■我は浮かばず 自分一人は世の無常から開放され極楽の玉の台に座していると考えることはできない。 ■玉の台に静けき身と… 「玉の台も同じことなり」(【夕顔 01】)といった源氏の無常観にも通じる。 ■橋姫の… 姫君を宇治の橋姫になぞらえた。「さ筵に衣片敷きこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫」(古今・恋四 読人しらず)をふまえる。また侘しい宇治川の柴舟のようすを重ねる。 ■いららぎたる 鳥肌が立っているようす。 ■ときをこそ せめて返歌が迅速であることをとりえとしよう、の気持ち。 ■さしかへる… 薫の「袖ぞ濡れぬる」を「袖をくたしはつ」で返す。 ■身さへうきて 古注は「さす棹のしづくにぬるる物ゆゑに身さへうきてもおもほゆるかな」を挙げるが出典不明。 ■御車率て参りぬ 前に帰還用の牛車を呼んだ(【橋姫 10】)。 ■御直衣 狩衣姿から平服の直衣に着替える。

朗読・解説:左大臣光永