【若菜上 10】源氏、朱雀院を見舞い女三の宮の後見を引き受ける

六条院も、すこし御心地よろしくと聞きたてまつらせたまひて、参りたまふ。御賜《たう》ばりの御封《みふ》などこそ、みな同じごと遜位《おりゐ》の帝《みかど》と等しく定まりたまへれど、まことの太上天皇《だいじやうてんわう》の儀式《ぎしき》にはうけばりたまはず、世のもてなし思ひきこえたるさまなどは、心ことなれど、ことさらにそぎたまひて、例《れい》の、ことごとしからぬ御車に奉りて、上達部《かむだちめ》などさるべきかぎり、車にてぞ仕うまつりたまへる。

院にはいみじく待ちよろこびきこえさせたまひて、苦しき御心地を思し強《つよ》りて御|対面《たいめん》あり。うるはしきさまならず、ただおはします方に、御座《おまし》よそひ加へて入れたてまつりたまふ。変りたまへる御ありさま見たてまつりたまふに、来《き》し方《かた》行く先くれて、悲しくとめがたく思さるれば、とみにもえためらひたまはず。「故院《こゐん》に後れたてまつりしころほひより、世の常なく思うたまへられしかば、この方《かた》の本意《ほい》深くすすみはべりにしを、心弱く思うたまへたゆたふことのみはべりつつ、つひにかく見たてまつりなしはべるまで、後れたてまつりはべりぬる心のぬるさを、恥づかしく思うたまへらるるかな。身にとりては、事にもあるまじく思うたまへ立ちはべるをりをりあるを、さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざにこそはべりけれ」と、慰めがたく思したり。

院ももの心細く思さるるに、え心強からず、うちしほたれたまひつつ、昔今《いにしへいま》の御物語、いと弱げに聞こえさせたまひて、「今日か明日かとおぼえはべりつつ、さすがにほど経《へ》ぬるを、うちたゆみて深き本意《ほい》のはしにても遂《と》げずなりなむこと、と思ひ起こしてなむ。かくても残りの齢なくは行《おこな》ひの心ざしもかなふまじけれど、まづ仮にてものどめおきて、念仏をだにと思ひはべる。はかばかしからぬ身にても、世にながらふること、ただこの心ざしに引きとどめられたると、思うたまへ知られぬにしもあらぬを、今まで勤《つと》めなき怠《おこた》りをだに、やすからずなむ」とて、思しおきてたるさまなど、くはしくのたまはするついでに、「皇女《をむなみこ》たちを、あまたうち棄《す》てはべるなむ心苦しき。中にも、また思ひゆづる人なきをば、とり分きてうしろめたく見わづらひはべる」とて、まほにはあらぬ御気色を、心苦しく見たてまつりたまふ。御心の中《うち》にも、さすがにゆかしき御ありさまなれば、思し過ぐしがたくて、「げにただ人よりも、かかる筋は、私《わたくし》ざまの御後見なきは、口惜しげなるわざになむはべりける。春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世のまうけの君と、天《あめ》の下の頼み所に仰ぎきこえさするを、ましてこの事と聞こえおかせたまはん事は、一事《ひとこと》としておろそかに軽《かろ》め申したまふべきにはべらねば、さらに行く先のこと思し悩むべきにもはべらねど、げに事限りあれば、おほやけとなりたまひ、世の政《まつりごと》御心にかなふべしとはいひながら、女の御ために、何ばかりのけざやかなる御心寄せあるべきにもはべらざりけり。すべて女の御ためには、さまざままことの御後見とすべきものは、なほさるべき筋《すぢ》に契《ちぎ》りをかはし、え避《さ》らぬことにはぐくみきこゆる御まもりめはべるなん、うしろやすかるべきことにはべるを、なほ、強《し》ひて後《のち》の世の御疑ひ残るべくは、よろしきに思し選びて、忍びてさるべき御あづかりを定めおかせたまふべきになむはべなる」と奏したまふ。「さやうに思ひ寄ることはべれど、それも難《かた》きことになむありける。いにしへの例《ためし》を聞きはべるにも、世をたもつ盛りの皇女《みこ》にだに、人を選びて、さるさまの事をしたまへるたぐひ多かりけり。まして、かく、今は、とこの世を離るる際《きは》にて、ことごとしく思ふべきにもあらねど、また、しか棄《す》つる中にも、棄てがたきことありて、さまざまに思ひわづらひはべるほどに、病《やまひ》は重《おも》りゆく、またとり返すべきにもあらぬ月日の過ぎゆけば、心あわたたしくなむ。かたはらいたき譲《ゆづ》りなれど、このいはけなき内親王《ないしんわう》ひとり、とり分きてはぐくみ思して、さるべきよすがをも、御心に思し定めて預けたまへと聞こえまほしきを。権中納言などの独《ひと》りものしつるほどに、進み寄るべくこそありけれ、大臣《おほひまうちぎみ》に先《せん》ぜられて、ねたくおぼえはべる」と聞こえたまふ。「中納言の朝臣《あそむ》、まめやかなる方は、いとよく仕うまつりぬべくはべるを、何ごともまだ浅くて、たどり少なくこそはべらめ。かたじけなくとも、深き心にて後見きこえさせはべらんに、おはします御|蔭《かげ》にかはりては思されじを、ただ行く先短くて、仕うまつりさすことやはべらむと、疑はしき方のみなむ、心苦しくはべるべき」と承《う》け引き申したまひつ。

夜に入りぬれば、主《あるじ》の院方《ゐんがた》も、客人《まらうと》の上達部たちも、みな御前にて御|饗応《あるじ》のこと、精進物《さうじもの》にて、うるはしからずなまめかしくせさせたまへり。院の御前《おまへ》に、浅香《せんかう》の懸盤《かけばん》に御|鉢《はち》など、昔にかはりてまゐるを、人々涙おし拭《のご》ひたまふ。あはれなる筋のことどもあれど、うるさければ書かず。夜更けて帰りたまふ。禄《ろく》ども次々に賜ふ。別当大納言も御送りに参りたまふ。主《あるじ》の院は、今日の雪にいとど御|風邪《かぜ》加はりて、かき乱りなやましく思さるれど、この宮の御事聞こえ定めつるを、心やすく思しけり。

現代語訳

六条院(源氏)も、すこし朱雀院の御気分がよろしくていらっしゃるとお聞き申されて、参上なさる。六条院は、朝廷から御賜りになる多くのご給与などは、太上天皇と同じ額と定まっていらっしゃるが、実際の太上天皇の儀式のようには仰々しくなさらず、世間の待遇や尊敬などは格別であるが、ことさら質素になさって、例によって、あまりおおげさでない御車にお乗りになられて、上達部などしかるべき者だけが、車にてお仕え申しあげなさる。

朱雀院はたいそう待ちかねていらして、お喜び申されて、苦しいご気分を無理強いしてお会いになられる。かしこまった作法ではなく、ただ院がいらっしゃるお居間に、御座をもう一座もうけて、六条院をお招き入れ申しあげなさる。六条院は、朱雀院のお変わりになられた御姿を拝見なさるにつけ、過去未来の分別もつかず、悲しく、涙が止めようもなくお思いになるので、すぐには心を落ち着かせて話し出すこともおできにならない。(源氏)「故院(桐壷院)がお先立たれましたころから、世の無常を感じておりまして、その方面の願いが深く進んでございましたが、心弱く思ってぐずぐずしてばかりでございまして、ついにはこうしてご出家なされたさまを拝見しますまで、後れ申し上げました自分の怠惰な心を、恥ずかしく存ぜられますことですよ。私のような身にとりましては、出家もなにほどの事でもないと思いたちます折々がございますが、さてその時になると、まことに忍びがたいことが多かったような次第でございましたよ」と、わが心を慰め難くお思いになっていらっしゃる。朱雀院も何となく心細くおぼしめされるにつけ、心強くいらっしゃることはおできにならず、涙におおぬれになりながら、昔今のお話を、まことに弱々しくお話申されて、(朱雀院)「今日か明日かと思いながら過ごしておりまして、そうはいっても日数が経ってしまいましたが、ぐずぐずして深い願いの片端だけでも達成せずに終わってしまうでは困ると、思い起こしまして。こうして出家したところで余命いくばくもないのだから、仏事のお勤めをしようとの願いも叶わないでしょうが、まずは一時的にせよ出家の功徳によって心の落ち着きを得て、せめて念仏だけでもと思っております。取るに足らない身ではあっても、世に長らえていることは、ひたすらこの心ざしに引き留められていたからだと、わかっていないことでもないのですが、今までお勤めを怠ってきたことを思うことさえ、安心できないことで」とおっしゃって、これまで考えていらっしゃったことなどを、詳しく仰せあそばすついでに、(朱雀院)「皇女たちを、多くこの世に残していくことが気がかりです。中にも、私の他に世話をまかせられる人もない女宮(女三の宮)のことが、取り分け心配で、気がかりございます」とおっしゃって、朱雀院がはっきり言うではない御ようすを、六条院はおいたわしく拝見なさる。六条院は、御心中には、さすがにご興味を抱いていらっしゃる女宮(女三の宮)のご様子であるので、そのままにしておくことはおできにならず、(源氏)「なるほど、普通の身分の人よりも、こうした血筋の御方は、私的な御後見がなくては、不都合というものでございます。東宮がこうしていらっしゃるのを、まことにご聡明な末の世におけるお世継ぎの君と、天下の頼み所として仰ぎ申されていらっしゃるので、まして父院である貴方さまが、このことと特にお頼み置きなさる事は、東宮は、一事としておろそかに軽んじ申されるはずもございませんので、まったく将来のことを思い悩む必要もございませんが、まことにそれも限りがあることで、東宮が御位におつきになり、世の政を御心のままに行われるだろうとはいっても、女宮の御ために、どれほどの親身な御心づかいをできようはずもございません。すべて女のためには、さまざまの身の回りのことの御後見に当たる者は、やはりしっかりした形で契りを交わし、逃げることのできない義務として、女を大切にし申しあげるお守り役がおりますことが、安心できることでございますから、それでもやはり、どうしても後の世のご疑念が残るようでしたら、よろしきようにお考えになって御後見人をお選びになり、ひそかにしかるべき形で御引受けする者を決め置いておかれるべきでございましょう」と申しあげられる。

(朱雀院)「そのように思い寄ることはございますが、それも難しいことではあるのです。昔の例を聞きましても、父帝が位にあって盛りのころの皇女でさえ、人を選んで、このように後見をさせる例が多かったのです。まして、こうして出家して、今は最後と、この世を離れる瀬戸際で、おおげさに思うべきでもないのですが、また、こうして俗世を棄てる中にも、棄てがたいことがあって、さまざまに心配しておりますうちに、病は重くなってゆくし……。ふたたび取り返すこともできない月日が過ぎてゆけば、心がせかされまして。心苦しい譲りものではありますが、この幼い内親王(女三の宮)ひとりを、取り分け大切に目をかけてくださって、しかるべき適当な人物をも、心に思い定めてお預けくださいとお願い申しあげたいのですが……。権中納言(夕霧)などが独身でいらした頃に、おすすめすればよかったのに、太政大臣に先をこされて、恨めしく思いますよ」と申しあげられる。

(源氏)「中納言の朝臣(夕霧)は、生まじめな方面ではまことによくお仕え申しあげるでしょうが、何ごともまだ未熟で、思慮が足りないことがございますでしょう。畏れ多いことですが、私が心をこめて御後見申しあげるなら、あなた様がお守りになるのと異なるものとは思われますまいが、ただ私とて行き先が短くて、途中でお仕えできなくなってしまうだろうかと、疑わしいことだけが、いたわしく存ぜられるようでございます」と、お引受け申しあげられた。

夜になったので、饗応する側の朱雀院方も、客人の上達部たちも、みな朱雀院の御前にて御饗応に預かるが、精進料理であるから、格式ばらず、優美におととのえになられた。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、これまでと違ったふうにお召し上がりになるのを拝見して、人々は涙をおぬぐいになる。しみじみと情深いことがさまざまにあったが、煩雑になるので書かない。夜が更けて六条院はお帰りになる。贈り物の数々を身分の順に下される。別当大納言も御送りに参られる。主人である朱雀院は、今日の雪で御風邪がひどくなって、ひどくご気分がお悪くていらっしゃるが、この女宮(女三の宮)の御ことを六条院にお願い申されて話がついたことで、ご安心なさったのであった。

語句

■参りたまふ 朱雀院に。 ■御封 朝廷から下賜される給与。「太政大臣封千五百、戸二千、勅旨田千町」(河海抄)。 ■遜位の帝 上皇。 ■まことの太上天皇 実際の太上天皇。源氏は准太上天皇。 ■うけばりたまはず 「受け張る」は他にはばからず振る舞う。でしゃばる。 ■うるはしきさまならず 格式ばった対面ではなく、兄弟の間のごく内輪の面会という形にした。 ■ためらひたまはず 「ためらふ」はぐずぐずする、躊躇するの意だが、ここでは躊躇しつつも話を切り出すこと。それがなかなかできないと。 ■故院に後れたてまつりしころほひ 桐壺院崩御は十六年前のこと(【桐壺 10】)。 ■この方の本意 出家したいという気持ち(【同上】・【絵合 11】など)。 ■かく見たてまつりなしはべる 朱雀院の出家姿をみること。 ■身にとりては 朱雀院に比べると源氏の身は取るに足らないの意か、もしくは隠居の身なので出家もたやすいの意か。 ■さらにいと忍びがたきこと いざ出家を決めるとなると、いろいろと俗世に気がかりなことが多く躊躇してしまうの意。 ■慰めがたく 「わが心慰めかつ更科や姨捨山に照る月を見て」(古今・雑上 読人しらず)による慣用表現。 ■え心強からず 前に「苦しき御心地を思し強りて」とあった。 ■今日か明日かと 自分の寿命がいつ尽きるかと心配しているのである。「よのなかのさわがしきころ/人の世の老をはてにしせましかばけふかあすかとなげかざらまし」(西本願寺本朝忠集)。 ■さすがにほど経ぬるを それほど重病であるのに。 ■深き本意 往生したいという願い。出家すること。 ■遂げずなりなんこと 下に「困る」「心配である」などを補い読む。 ■仮にものどめおきて 一時的にせよ出家の功徳によって心の落ち着きを得て。 ■念仏をだに 厳しい修行などはできないとしても、せめて念仏だけでも。 ■やすからずなん 「仏がどう思われるか心配である」の意を下に補い読む。 ■まほにはあらぬ はっきりと口に出すではなく言い淀んでいる。 ■ゆかしき御ありさま 前も源氏が女三の宮に興味を抱いている記述があった(【若菜上 08】)。 ■思し過ぐしがたく 捨て置くことができない、何もしないでいることができないの意。 ■かかる筋 皇族のこと。 ■春宮 春宮は女三の宮の兄。 ■まうけの君 漢語「儲君」の訳。皇位継承予定者。皇太子。 ■まして 一般の人でさえ東宮を仰ぎ頼んでいるのだから、まして父院である朱雀院はいっそう仰ぎ頼むの意。 ■女の御ため 女の身分は不安定なので、夫となって後見する人が必要の意。 ■え避らぬことに 避けられない義務として。 ■御まもりめ 御守り役。 ■なほ 東宮がご健在だといっても。 ■御あずかり 引き受ける人。夫。 ■さやうに 女三の宮をしかるべき夫と結婚させること。  ■いにしへの例 『河海抄』は嵯峨天皇皇女源潔姫が藤原良房に嫁いだ例、醍醐天皇皇女康子内親王が藤原師輔に嫁いだ例をあげる。 ■人を選びて 帝の皇女は本来、結婚しないのがよしとされ、結婚することは軽々しいと見られた。しかしそれでも結婚するなら、しかるべき頼りになる相手を選ぶべきだと朱雀院は語る。 ■かく 朱雀院は退位、出家の身でかつ病弱である。 ■ことごとくしく 今は往生をとげることに集中すべきであるのに、娘一人のことに心惹かれているのはふさわしくないの意。 ■さるべきよすが しかるべき、頼りになる夫。 ■まほしきを 「を」は詠嘆。朱雀院の真意は源氏に女三の宮と結婚してくれと言っているのだが、そうはっきりとは言わず、「後見人になってくれ」と話をぼかしている。しかしこれまでの経緯から、朱雀院の真意は源氏によく伝わるのである。 ■権中納言などの独りものにつるほどに… 前も「この権中納言の独りありつるほどに、うちかすめてこそ心みるべかりけれ」(【若菜上 04】)とあった。 ■先ぜられて 夕霧が太政大臣の娘である雲居雁と結婚したこと。 ■まめやかなる方 行政方面など実務上の能力。 ■たどり 思慮をめぐらすこと。 ■客人の上達部 源氏の共をして参上した公卿たち。 ■精進物 朱雀院は出家しているので魚肉を避けて精進料理となる。 ■うるはしからず 格式ばらず。 ■浅香 香木の一種。沈香の類。 ■懸盤 お盆の一種。四本脚の上に折敷《おしき》(食台)をのせたもの。 ■御鉢 出家者の食器。 ■昔にかはりて 在俗時と出家時では食事の内容も違ってくる。 ■別当大納言 朱雀院の別当。藤大納言。既出(【若菜上 06】【同 07】)。

朗読・解説:左大臣光永