【若菜上 11】紫の上の困惑 源氏、紫の上に女三の宮の件を話す

六条院は、なま心苦しう、さまざま思し乱る。紫の上も、かかる御定めなど、かねてもほの聞きたまひけれど、「さしもあらじ、前斎院《さきのさいゐん》をもねむごろに聞こえたまふやうなりしかど、わざとしも思し遂《と》げずなりにしを」など思して、さることやある、とも問ひきこえたまはず、何心もなくておはするに、いとほしく「このことをいかに思さむ。わが心はつゆも変るまじく、さることあらんにつけては、なかなかいとど深さこそまさらめ、見定めたまはざらむほど、いかに思ひ疑ひたまはむ」など、やすからず思さる。今の年ごろとなりては、ましてかたみに隔てきこえたまふことなく、あはれなる御仲なれば、しばし心に隔て残したることあらむもいぶせきを、その夜はうちやすみて明かしたまひつ。

またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに、過ぎにし方行く先の御物語聞こえかはしたまふ。「院の頼もしげなくなりたまひにたる、御とぶらひに参りて、あはれなることどものありつるかな。女三の宮の御ことを、いと棄《す》てがたげに思して、しかじかなむのたまはせつけしかば、心苦しくて、え聞こえ辞《いな》びずなりにしを、ことごとしくぞ人は言ひなさむかし。今はさやうのこともうひうひしく、すさまじく思ひなりにたれば、人づてに気色ばませたまひしには、とかくのがれきこえしを、対面《たいめん》のついでに、心深きさまなることどもをのたまひつづけしには、えすくすくしくも返《かへ》さひ申さでなむ。深き御|山住《やまず》みにうつろひたまはむほどにこそは、渡したてまつらめ。あぢきなくや思さるべき。いみじきことありとも、御ため、あるより変ることはさらにあるまじきを、心なおきたまひそよ。かの御ためこそ心苦しからめ。それもかたはならずもてなしてむ。誰《たれ》も誰ものどかにて過ぐしたまはば」など聞こえたまふ。はかなき御すさびごとをだに、めざましきものに思して、心やすからぬ御心ざまなれば、いかが思さむと思すに、いとつれなくて、「あはれなる御譲りにこそはあなれ。ここには、いかなる心をおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてはなど咎《とが》めらるまじくは、心やすくてもはべなむを、かの母女御の御方ざまにても、疎《うと》からず思し数《かず》まへてむや」と卑下《ひげ》したまふを、「あまり、かう、うちとけたまふ御ゆるしも、いかなれば、とうしろめたくこそあれ。まことは、さだに思しゆるいて、我も人も心得て、なだらかにもてなし過ぐしたまはば、いよいよあはれになむ。ひが言《こと》聞こえなどせむ人の言《こと》、聞き入れたまふな。すべて世の人の口といふものなむ、誰《た》が言ひ出づることともなく、おのづから人の仲らひなど、うちほほゆがみ、思はずなること出で来るものなめるを、心ひとつにしづめて、ありさまに従ふなんよき。まだきに騒ぎて、あいなきもの恨みしたまふな」と、いとよく教へきこえたまふ。

心の中《うち》にも、「かく空より出で来にたるやうなることにて、のがれたまひ難きを、憎げにも聞こえなさじ。わが心に憚《はばか》りたまひ、諌《いさ》むることに従ひたまふべき、おのがどちの心より起これる懸想《けさう》にもあらず、堰《せ》かるべき方《かた》なきものから、をこがましく思ひむすぼほるるさま、世人《よひと》に漏りきこえじ。式部卿宮の大《おほ》北の方、常にうけはしげなることどもをのたまひ出でつつ、あぢきなき大将の御事にてさへ、あやしく恨みそねみたまふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく思ひあはせたまはむ」など、おいらかなる人の御心といへど、いかでかはかばかりの隈《くま゜》はなからむ。今はさりとも、とのみわが身を思ひあがり、うらなくて過ぐしける世の、人わらへならむことを下《した》には思ひつづけたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり。

現代語訳

六条院(源氏)は何となく心苦しく、さまざまに思い乱れていらっしゃる。紫の上も、このような婿選びのお話があることを、以前から少しは聞いていらっしたが、(紫の上)「そうはなるまい。殿は、前斎院(朝顔)のことも熱心に言い寄っていらしたようだったけれど、あえて思いをお遂げになろうとはなさらなかったのだから」などとお思いになり、そのような話があるかとも、お尋ね申されず、気にかけずにいらしたところ、六条院(源氏)は紫の上のことがおいたわしく、「この話をどのようにお思いになられるだろう。私の気持ちはこれまでと少しも変わるはずもないし、そのようなことがあっては、かえってまことに深い仲となるだろうが、そうした私の気持ちをお見定めにならない間は、上はどんなにかお疑いになることか」など、不安にお思いになる。ここまで長年連れ添っていらっしゃるので、ますますお互いに隔てを置き申しあげなさることはなく、相思相愛のご夫婦仲であるので、ほんの短い間でも心に隔てを残していることがあるのも気が晴れないが、六条院(源氏)は、その夜はそのままお休みになり、夜をお明かしになられた。

翌日、雪が降り、空のけしきもしみじみと情け深い中、お二人は、過ぎた昔のこと、これからのことをお互いにお話になる。(源氏)「院(朱雀院)がお弱りになっていらっしゃるところに、お見舞いに参って、しみじみ心打たれることがあったのですよ。院は、女三の宮の御ことを、まことに見棄てがたそうにお思いになられて、これこれのことを私にお頼みになられたので、おいたわしくて、ご辞退申しあげることもできなかったのですが、大げさに世間の人は言い立てるでしょうね。この年になるとそうした方面のことも気恥ずかしく、不似合と思うようになりましたので、院から人づてにそれとなく打診してこられた時は、あれこれ言い逃れしてお断り申しあげたのですが、直接お逢いした折に、心に深くお決めあそばしているさまざまの事を仰せつづけられては、すげなくご辞退申しあげることもできませんでしてね。院(朱雀院)が山深いところにお移りになる頃には、女宮(女三の宮)をお迎え申しあげることになるでしょう。貴女は不愉快にお思いでしょうね。つらいことがあるとしても、貴女の御ために、これまでと変わることなど、あるはずもないのですから、心隔てなどなさいますな。あの御方のためにも、それはお気の毒ですから。女宮のことを、不足なくお迎えいたしましょう。誰も誰も、のびやかにお暮らしくださったら…」など申しあげなさる。かりそめの御浮気心でさえ、上(紫の上)は目障りなことにお思いになり、心おだやかではいらっしゃれないご性分なので、どうお思いになられるだろうとお思いになっていると、上(紫の上)は、まことにあっさりと、(紫の上)「おいたわしい御譲りではあったものですね。私が、何の心隔てをし申しあげるものですか。私がこうして六条院に住んでいることが、目障りで、まだいるのか…などと御先方さまからお咎めを受けでもしない限り、私は何の動揺することもないでしょうし、かの女宮の母女御のお血筋としても、私のことを縁遠いものとはお考えになられないでしょうし」と、卑下なさるので、(源氏)「あまり、こうして、そっけなく御ゆるしくださるのも、どうしたのかと、後ろめたい気になりますよ。ほんとうは、せめてそのようにお許しいただいて、こちらも先方も心得て、おだやかに取り計らいお過ごしになってくだされば、いよいようれしい気持ちなのです。いい加減な噂話などをお耳に入れる人の言うことを、お聞き入れになりますな。すべて世の人の口というものは、誰が言い出すということもなく、自然と、人の夫婦仲などについて、事実と異なる、意外な話が出てくるもののようですから、ご自分の心一つにおさめて、なりゆきに従うのがよいのです。まだ何も起こらないのに騒いで、つまらないもの恨みなどなさいますな」とねまことによくお教え申しあげなさる。

上(紫の上)のご心中にも、「このような空から降ってきたようなことで、殿(源氏)もお断りになりづらかったろうし、憎らしげなことを申しあげるのはよそう。この私の気持ちにご遠慮なさり、私がお諫めることにお従いになれるような、当人同士の心から始まった懸想でもないのだ。せき止める方法もないのに、愚かにも思い沈んでいるさまを、世間の人に漏れ聞こえないようにしよう。式部卿宮の大北の方は、いつもさまざまな不愉快な呪わしげなことを言い出しなさっては、つまらない髭黒大将の御事についてまでも、妙にこちらを恨み妬んでいらっしゃるというから、このようなことを聞いて、どれほどひどく、それ見たことかとお思いになるだろう」などと、大らかな上(紫の上)のご気性とはいえ、この程度の世間からの非難に対する怯えは、当然あるだろう。いくら殿が好色だといっても今はさすがにもう安心とばかり、わが身を思い上がり、無邪気に過ごしてきた日々が、世間の物笑いの種になることを内心では心配しつづけていらっしゃるが、表面上は、まことにおだやかにばかりふるまっていらっしゃる。

語句

■なま心苦しう 女三の宮への期待と紫の上に対する罪悪感。 ■かかる御定め 女三の宮の婿選び。 ■さしもあらじ 「さ」は源氏が女三の宮の婿となること。 ■前斎院 朝顔の姫君。以前源氏が言い寄っていた(【朝顔 04】)。もし高貴な身分である朝顔の姫君が源氏の妻の座につけば、紫の上の立場は危うくなる。紫の上はそれを心配していたが、結局、そうはならなかった。だから今回も何事もないだろうと紫の上は自分に言い聞かせるのである。 ■いとほしく 源氏は紫の上に無断で女三の宮との結婚話を進めていることに罪悪感を抱く。 ■このことをいかに思さん 皇女である女三の宮が六条院に迎えられれば正妻となるのは必定。これまで事実上の正妻であった紫の上の立場はおびやかされる。朱雀院もそこで波乱が起こることをわかってやっているのか。 ■さること 女三の宮を妻として迎えること。 ■なかなかいとど深さこそまさらめ 紫の上は正妻の地位からは転落するとしても、源氏の紫の上に対する愛情はいよいよまさるの意。 ■見定めたまはざらむほど 紫の上が、源氏の愛情は変わらないと見届けるまで。 ■その夜 朱雀院から帰った夜。 ■ことごとしく 源氏が女三の宮を妻として迎えたことを世間の人があれこれ好色めいた噂話をするだろうの意。 ■さやうのこと 妻を迎えるといったこと。 ■すさまじく 新妻を迎えることが源氏の年齢には似つかわしくないの意。本心は真逆で、源氏は女三の宮に興味津々である。 ■人づてに 左中弁が源氏に朱雀院の意向を伝えたこと(【若菜上 07】)。 ■対面のついでに →【若菜上 10】。 ■えすくすくしくも 「すくすくし」はきまじめだ。愛想がない。事務的。 ■深き御山住み 朱雀院は「西山なる御寺」に入る予定。仁和寺を想定。仁和寺は光孝天皇御願。次の宇多天皇の仁和四年(888)建立。宇多天皇も出家後、法親王として仁和寺に入った。 ■いみじきこと 女三の宮の降嫁にともなうさまざまな騒動・衝突を源氏は想定。 ■のどかにて 嫉妬反目などせずおだやかに暮らすこと。 ■過ぐしたまはば 「私はそれが一番よいと思うのです」といった意を下に補い読む。 ■はかなき御すさびごと これまでよくあったようなかりそめの浮気。源氏は紫の上の嫉妬しがちな所が難点だと、かつて批評した(【朝顔 09】)。 ■いとつれなくて 紫の上は表面上はなんでもないように振る舞い、内心の嫉妬を抑えている。 ■あはれなる御譲り あえて源氏が望んだのだろうとは言わず、女三の宮降嫁に至った朱雀院の事情に同情してみせる。 ■心をおきたてまつるべきにか 源氏が「心なおきたまひそよ」と言ったのを受ける。 ■はべなん 「はべりなん」の撥音便無表記。 ■かの母女御の御方ざま 女三の宮の母女御は、紫の上の父の妹で、紫の上と女三の宮は従姉妹の関係(【若菜上 01】)。 ■いかなれば それではまるで私に愛情がないようではないですかという切り返し。本気でそうは思っていないが、紫の上の皮肉まじりの言葉になんとか自分の立ち位置を保とうという駆け引きである。 ■さだに 「さ」は前の紫の上の言葉。源氏は紫の上の言葉に皮肉がこめられていることは重々承知しながら、それに気づかぬふりをして言葉通りに受け止めた上で、話を進めていく。源氏のとくいわざといえる。 ■我も人も 紫の上も女三の宮も。 ■ひが言 源氏が紫の上に飽きて女三の宮に乗り換えた、などという世間の噂話を想定。 ■ありさま このまま女三の宮の降嫁をすすめて、その上で私の貴女に対する愛情が冷めるのか、以前と変わらぬままなのか、見届けてくださいの意。また暗に、女三の宮を正妻とすることになろうが、それについて反対しないでくださいという打診とも取れる。 ■まだきに 女三の宮が降嫁されない前から。 ■のがれたまひ難きを 「のだれたまふかたなきを」とする本も。 ■憎げにも 嫉妬をむき出しにしたような、憎たらしい物言いのこと。 ■わが心に憚りたまひ… 紫の上は女三の宮の降嫁は朱雀院からの要望であり、源氏は従うほかなかったと自分に言い聞かせる。事実は半分当たり、半分はずれている。朱雀院からの要望は当然のことだが、源氏自身も女三の宮に興味を抱いているのである。 ■堰かるべき方なき 朱雀院からの要望なので断ることができないの意。 ■式部卿宮の大北の方 紫の上の義母。髭黒大将の元北の方の母。 ■常にうけはしげなることども 源氏の須磨下向について「大北の方」が嫌味を言った件など(【須磨 03】)。 ■うけはしげなること 「誓ふ・祈ふ」は神に祈って人に不幸を与えようとすること。呪うこと。 ■あぢきなき大将 髭黒と玉鬘の件で大北の方が源氏と紫の上を恨んでいる件(【真木柱 13】【同 15】)。 ■かやうに聞きて 源氏が女三の宮を妻として迎えたと聞いて。 ■いかにいちじるしく 「髭黒が北の方を捨てたむくいに、紫の上は源氏から捨てられるのだ」と大北の方はそれ見たことかという気になるだろうと。 ■かばかりの 世間体を気にすること。とくに式部卿宮の大北の方からの非難を気にすること。 ■今はさりとも いくら源氏が好色といっても妻の座におさまっている今となっては自分の地位は安泰だろうと。

朗読・解説:左大臣光永