【横笛 08】源氏、夕霧より柏木遺愛の笛を授かる
対《たい》へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日も暮れかかりぬ。昨夜《よべ》かの一条宮に参《ま》うでたりしに、おはせしありさまなど聞こえ出でたまへるを、ほほ笑《ゑ》みて聞きおはす。あはれなる昔の事、かかりたるふしぶしは、あへしらひなどしたまふに、「かの想夫恋《さうふれん》の心ばへは、げに、いにしへの例《ためし》にもひき出でつべかりけるをりながら、女は、なほ人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれ、と思ひ知らるる事どもこそ多かれ。過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を人に知られぬ、とならば、同じうは心清くて、とかくかかづらひゆかしげなき乱れなからむや、誰《た》がためも心にくくめやすかるべきことならむ、となん思ふ」とのたまへば、「さかし。人の上の御|教《おしへ》ばかりは心|強《つよ》げにて、かかるすきはいでや」と見たてまつりたまふ。
「何の乱れかはべらむ。なほ常ならぬ世のあはれをかけそめはべりにしあたりに、心短くはべらんこそ、なかなか世の常の嫌疑《けんぎ》あり顔にはべらめ、とてこそ。想夫恋は、心とさしすぎて言《こと》出でたまはんや、憎きことにはべらまし、もののついでにほのかなりしは、をりからのよしづきて、をかしうなむはべりし。何ごとも、人により、事に従ふわざにこそはべるべかめれ。齢《よはひ》なども、やうやういたう若びたまふべきほどにもものしたまはず、また、あざれがましうすきずきしき気色などにもの馴れなどもしはべらぬに、うちとけたまふにや。おほかたなつかしうめやすき人の御ありさまになむものしたまひける」など聞こえたまふに、いとよきついで作り出でて、すこし近く参り寄りたまひて、かの夢語《ゆめがたり》を聞こえたまへば、とみにものものたまはで聞こしめして、思しあはすることもあり。
「その笛はここに見るべきゆゑある物なり。かれは陽成院《やうぜいゐん》の御笛なり。それを、故式部卿宮のいみじきものにしたまひけるを、かの衛門督は、童《わらは》よりいとことなる音《ね》を吹き出でしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈物《おくりもの》にとらせたまへるなり。女の心は深くもたどり知らず、しかものしたるななり」などのたまひて、「末の世の伝へは、またいづ方にとかは思ひまがへん。さやうに思ふなりけんかし」など思して、この君もいといたり深き人なれば、思ひよることあらむかし、と思す。
その御気色を見るに、いとど憚《はばか》りて、とみにもうち出できこえたまはねど、せめて聞かせたてまつらんの心あれば、今しも事のついでに思ひ出でたるやうに、おぼめかしうもてなして、「いまは、とせしほどにも、とぶらひにまかりてはべりしに、亡《な》からむ後《のち》のことども言ひおきはべりし中に、しかじかなん深くかしこまり申すよしを、返す返すものしはべりしかば、いかなることにかはべりけむ、今にそのゆゑをなんえ思ひたまへ寄りはべらねば、おぼつかなくはべる」と、いとたどたどしげに聞こえたまふに、さればよ、と思せど、何かはそのほどのことあらはしのたまふべきならねば、しばしおぼめかしくて、「しか人の恨みとまるばかりの気色は、何のついでにかは漏り出でけんと、みづからもえ思ひ出でずなむ。さて、今、静かに、かの夢は思ひあはせてなむ聞こゆべき。夜《よる》語らずとか女ばらの伝へに言ふなり」とのたまひて、をさをさ御|答《いら》へもなければ、うち出で聞こえてけるをいかに思すにか、とつつましく思しけりとぞ。
現代語訳
院(源氏)が、西の対にお帰りになられたので、のんびりとお話などを申し上げていらっしゃる間に、日も暮れかかった。大将(夕霧)が、昨夜あの一条宮に参った時の、あちらのご様子などを、話題に出されるのを、院(源氏)は、微笑んで聞いていらっしゃる。切ない昔のこと、院に関係している所々は、受け答えをなさるうちに、(源氏)「その想夫恋を奏でた時のおもむきは、なるほど、昔の風流事の例としても引用されるような折ではありますが、女というものは、やはり人が心を動かすような嗜みがあったとしても、並大抵のことでは漏らすべきではないのだ、と思い知られたさまざまな経験が、私自身多かったのです。故人(柏木)とのかつての友誼を忘れず、そうやって末長い厚意を示していることを、宮(落葉の宮)もすでにご存知であるならば、同じことなら心清く、変にあれこれ関わってつまらない失態をしないことことが、どちらにとっても奥ゆかしく、好ましいだろう、と私は思います」とおっしゃるので、(夕霧)「それはそうでしょうが。人の身の上についてのお説教ばかりは強気でおっしゃるが、こうした色めいたことについて、父上はこれまでどんなふうにふるまってこられたことか」とそう存じ上げていらっしゃる。
(夕霧)「何の失態をするものですか。やはり無常の世の中であることのお悔やみの気持ちを、あちら様に対してお寄せしてまいったのですが、それがすぐに訪れなくなることのほうが、世間並に人から疑われるようなことでございましょう。そう考えてこその訪問です。想夫恋は、宮(落葉の宮)がご自分から差し出がましく演奏を始められるのであれば、はしたないことでもございましょうが、もののついでにほんの少し演奏されたのは、折からの風情にかなっていて、趣深いことでした。何ごとも、人により事柄によりましょう。宮(落葉の宮)の御年齢なども、おいおいそう若がっておいでになっていいような御年でもいらっしゃいませんし、また私が、浮ついた、色めいたふるまいなどに馴れていないからこそ、宮は安心して接してくださるのでしょうか。だいたいにおいて、宮は、優しく無難なお人柄でいらっしゃいました」など申し上げられるにつけ、話を切り出すのにとてもよい機会をつくり出して、すこし近くにお寄りになって、例の夢語を申し上げられると、院(源氏)は、すぐにはものもおっしゃらないで、その話をお耳になさって、お思い合わせることもあるのだ。
(源氏)「その笛はここで預かるべき由緒ある物です。あれは陽成院の御笛なので。それを、故式部卿宮が大事にしていらしたのを、かの衛門督(柏木)は、童のころからまことに格別の音を出すのに感心して、かの宮(式部卿宮)が萩の宴をなさった日に、贈物として柏木にお取らせになられたそうです。女(一条御息所)の考えでは深い事情を尋ね知ろうともせず、そうやって貴方にお授けになられたのでしょう」などとおっしゃるので、(夕霧)「笛を子孫に伝えたいということは、ほかの誰を思うでもない、柏木は、若君(薫)に伝えたいと思っていたことだろう」などとお考えになられて、(源氏)「この君(夕霧)も、実に勘のよい人なので、思い当たることがあるだろうな」とお思いになる。
大将(夕霧)は、院(源氏)のご様子を見るにつけ、ひどく遠慮されて、すぐにも口に出して申し上げられないが、ぜひお耳に入れようという気持ちがあるので、たった今、事のついでに思い出したように、とぼけたふりをして、(夕霧)「柏木が今にも亡くなるという臨終の際に、私がお見舞いにうかがいましたところ、亡き後のさまざまな事を言い置きました中に、これこれと、深くかしこまって申しましたことを、くり返しくり返し申しましたので、どういう事でございましたのでしょうか、今までそのわけを思いつくことができませんので、気にかかっております」と、ひどく腑に落ちないように申されると、(源氏)「それきた」とお思いになるが、どうしてその当時のことを打ち明けてお話しになることができようか、しばらく空とぼけたご様子で、(源氏)「そのように故人(柏木)が私に恨みを抱くような態度を、何のついでにうっかり見せたのでしょう、私自身も思い出すことができません。さて、今は静かに、例の夢のことは思い合わせてから話すべきでしょう。『夜は夢の話をすべきではない』とか、女たちの伝えに言うそうですし」とおっしゃって、はっきりした御答えもなかったので、大将(夕霧)は、自分が口に出して申し上げたのを、父院(源氏)はどうお思いになっていらっしゃるだろうか、と決まり悪くお思いになられた、とか。
語句
■対 紫の上の居所。西の対。 ■御物語 夕霧も源氏ついてきた。 ■あはれなる昔の事 柏木生存中の事。 ■かかりたるふしぶし 源氏に関係する所々。夕霧は疑問の中心部分(薫が柏木の子であること)については直接問いただすことをはばかる。周辺の話題から攻めていく。 ■想夫恋の心ばへ 落葉の宮が曲の最後のところを弾いて歌を返したこと(【横笛 05】)。 ■げに 夕霧の話を受けて。 ■いにしへの例 未来において、過去にこんな風流なことがあったと例として引用されるような事例。 ■女は… 柏木が落葉の宮に懸想していることを見て源氏は訓戒する。落葉の宮は和琴を奏でるべきでなかったという。 ■過ぎにし方の心ざし 生前の柏木との友誼。 ■かく長き用意 末永くあちらに誠実に世話をすること。 ■人に知られぬ 落葉の宮もすでにそれをわかっているということ。 ■ゆかしげなき乱れなからんや 夕霧が落葉の宮と不祥事でも起こした場合、源氏は朱雀院からお咎めを受けることになろう。源氏はそれを心配する。 ■さかし いかにもそのとおりの意。 ■かかるすきはいでや 源氏のふだんの好色についていう。もしくは「このような場合に父は自制できるか。できまい」ととる説も。夕霧の源氏に対する見方は手厳しい(【藤袴 03】)。 ■何の乱れかはべらむ 源氏が「ゆかしげなき乱れなからむや」と言ったのに反論。 ■常ならぬ世 柏木の死をさす。 ■あたり 一条宮。 ■心短くはべらん 柏木逝去の当時だけ親切心を見せて、その後すぐに疎遠になったら、の意。 ■世の常の嫌疑あり顔 世間並みの男のように、女に懸想して通い始めたが拒絶されたのですぐに通わなくなったと世間から疑われるの意。 ■とてこそ 下に「訪れている」の意を補い読む。 ■心とさしすぎて 心と・さしすぎて。落葉の宮が自分から・差し出がましく演奏を始めたのならという仮定。 ■もののついでに… 落葉の宮は想夫恋の終わりのところをほんの少し弾いた(【横笛 05】)。 ■齢なども 落葉の宮の年齢は不明。妹の女三の宮は二十三、四歳。 ■うちとけたまふにや 落葉の宮は自分のまじめさを信頼してくれているからこそ琴を弾いたのだろうの意。 ■かの夢語 柏木の亡霊が夢にあらわれ、「笛を託す相手は他にある」と言ったこと。 ■陽成院 陽成天皇(868-949)か。清和天皇第一皇子。母は藤原高子。元慶元年(877)即位、同八年(884)退位、天暦三年(949)崩御。 ■故式部卿宮 朝顔の姫君の父花園式部卿宮とも、紫の上の父式部卿宮とも、実在の人物、陽成院の弟の南院式部卿貞保親王とも。実在の貞保親王から柏木が幼少期に笛を授けられたと考えれば
、史実と創作の融合により物語に真実味がます。 ■萩の宴 この宴のことは物語中に見えない。 ■女の心は深くもたどり知らず 由緒ある笛が柏木に伝わったことも知らず、それを安易に夕霧に託してしまった、一条御息所の短慮を源氏はいう。 ■末の世の伝へ 柏木の歌に「末の世ながき」(【横笛 06】)とあったのをふまえる。 ■さやうに 笛を薫に伝えようと。 ■思ひ寄ることあらむ 夕霧は薫が柏木の子であることに気づいているだろう、と源氏は考える。 ■その御気色を見るに 夕霧は源氏の深刻な態度を見て、疑惑はほんとうだった、薫は柏木の子だと確信する。 ■せめて聞かせたてまつらん 前に「いからなむついでに、この事のくはしきありさまも明らめ、…」(【横笛 04】)とあった。 ■しかじか 柏木が臨終の際に話した、六条院と行き違いがあった云々のこと。 ■さればよ 前の「この君もいといたり深き人なれば…あらむかし」を受ける。 ■人の恨みとまるばかりの気色 朱雀院五十の賀の席で源氏は柏木に皮肉をあびせた(【若菜下 38】)。そのことをおぼえていようが、とぼける。 ■夜語らず 「孫真人伝フ、夜、夢ハ須ラク説クベカラズ」(紫明抄)。 ■とぞ 語り部が物語を伝聞の形で閉じる。