【若菜下 38】十二月、御賀の試楽 柏木、久しぶりに源氏に拝謁

十二月になりにけり。十|余《よ》日と定めて、舞ども馴《な》らし、殿の内ゆすりてののしる。二条院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、この試楽《しがく》によりぞ、えしづめはてで渡りたまへる。女御の君も里におはします。このたびの御子《みこ》は、また男にてなむおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮れもてあそびたてまつりたまふになむ、過ぐる齢《よはひ》のしるし、うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡りたまへり。大将の君、丑寅《うしとら》の町にて、まづ内《うち》々に、調楽《てうがく》のやうに明け暮れ遊び馴らしたまひければ、かの御方は御前《おまへ》のものは見たまはず。

衛門督を、かかる事のをりもまじらはせざらむは、いとはえなくさうざうしかるべき中《うち》に、人、あやし、とかたぶきぬべきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづらふよし申して参らず。さるは、そこはかと苦しげなる病《やまひ》にもあらざなるを、思ふ心のあるにや、と心苦しく思して、とり分きて御|消息《せうそこ》遣はす。父|大臣《おとど》も、「などか、返《かへ》さひ申されける。ひがひがしきやうに、院にも聞こしめさむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」とそそのかしたまふに、かく重ねてのたまへれば、苦し、と思ふ思ふ参りぬ。

まだ、上達部《かむだちめ》なども集《つど》ひたまはぬほどなりけり。例の、け近き御簾《みす》の内に入れたまひて、母屋《もや》の御簾おろしておはします。げに、いといたく痩《や》せ痩せに青みて、例も、誇《ほこ》りかに華やぎたる方は、弟の君たちにはもて消《け》たれて、いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、などかは皇女《みこ》たちの御|傍《かたはら》にさし並べたらむにさらに咎《とが》あるまじきを、ただ事のさまの、誰《たれ》も誰も、いと思ひやりなきこそいと罪ゆるしがたけれ、など御目とまれど、さりげなく、いとなつかしく、「その事となくて、対面《たいめん》もいと久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者《びやうざ》を見あつかひ、心の暇《いとま》なきほどに、院の御賀のため、ここにものしたまふ皇女《みこ》の、法事《ほふじ》仕うまつりたまふべくありしを、次々とどこほること繁《しげ》くて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくもしあへで、型《かた》のごとくなむ斎《いもひ》の御|鉢《はち》まゐるべきを、御賀などいへば、ことごとしきやうなれど、家に生ひ出づる童《わらは》べの数多くなりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめし、その事をだにはたさんとて、拍子《ひやうし》ととのへむこと、また誰にかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろとぶらひものしたまはぬ恨みも棄ててける」とのたまふ御気色の、うらなきやうなるものからいといと恥づかしきに、顔の色|違《たが》ふらむとおぼえて、御|答《いら》へもとみにえ聞こえず。

「月ごろ、方々《かたがた》に思しなやむ御こと承り嘆きはべりながら、春のころほひより、例もわづらひはべる乱り脚病《かくびやう》といふものところせく起こりわづらひはべりて、はかばかしく踏み立つることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべりてなむ、内裏《うち》などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠《こも》りはべる。院の御|齢《よはひ》足りたまふ年なり、人よりさだかに数へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕《ちじ》の大臣《おとど》思ひおよび申されしを、冠《かうぶり》を挂《か》け、車を惜しまず棄ててし身にて、進み仕うまつらむにつく所なし、げに下臈《げらふ》なりとも、同じごと深きところはべらむ、その心御覧ぜられよ、ともよほし申さるることのはべしかば、重き病《やまひ》をあひ助けてなむ、参りてはべし。今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめしき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしくも思すまじく見たてまつりはべりしを、事どもをばそがせたまひて、静かなる御物語の深き御願ひかなはせたまはむなん、まさりてはべるべき」と申したまへば、いかめしく聞きし御賀のことを、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労《らう》ありと思す。

「ただかくなん。事そぎたるさまに世人《よひと》は浅く見るべきを、さはいへど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、いとど思ひなられはべる。大将は、公方《おほやけがた》は、やうやうおとなぶめれど、かうやうに情《なさけ》びたる方は、もとよりしまぬにやあらむ。かの院、何ごとも心及びたまはぬことはをさをさなき中《うち》にも、楽《がく》の方《かた》の事は御心とどめて、いとかしこく知りととのへたまへるを、さこそ思し棄てたるやうなれ、静かに聞こしめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。かの大将ともろともに見入れて、舞の童《わらは》べの用意、心ばへよく加へたまへ。物の師などいふものは、ただわが立てたることこそあれ、いと口惜しきものなり」など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから苦しくつつましくて、言少《ことずく》なにて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこまやかにもあらでやうやうすべり出でぬ。

東《ひむがし》の御殿《おとど》にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人《がくにん》、舞人《まひびと》の装束《さうぞく》のことなど、またまた行ひ加へたまふ。あるべき限りいみじく尽くしたまへるに、いとどくはしき心しらひ添ふも、げにこの道はいと深き人にぞものしたまふめる。

今日は、かかる試《こころ》みの日なれど、御|方々《かたがた》もの見たまはむに、見どころなくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡《しらつるばみ》に、葡萄染《えびぞめ》の下襲《したがさね》を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲《すはうがさね》、楽人《がくにん》三十人、今日は白襲《しらがさね》を着たる、辰巳《たつみ》の方の釣殿《つりどの》につづきたる廊《らう》を楽所《がくそ》にして、山の南の側《そば》より御前に出づるほど、仙遊霞《せんいうか》といふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、梅《むめ》のけしき見るかひありてほほ笑みたり。廂《ひさし》の御簾《みす》の内におはしませば、式部卿宮、右大臣《みぎのおとど》ばかりさぶらひたまひて、それより下《しも》の上達部《かむだちめ》は、簀子《すのこ》に、わざとならぬ日のことにて、御|饗応《あるじ》などけ近きほどに仕うまつりなしたり。

右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王《そんわう》の君たち二人は万歳楽《まんざいらく》、まだいと小さきほどにて、いとらうたげなり。四人ながらいづれとなく、高き家の子にて、容貌《かたち》をかしげにかしづき出でたる、思ひなしもやむごとなし。また、大将の御子の典侍腹《ないしのすけばら》の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、今は源中納言の御子|皇麞《わうじやう》、右の大殿《おほいどの》の三郎君|陵王《りやうわう》、大将殿の太郎|落蹲《らくそん》、さては太平楽《たいへいらく》、喜春楽《きしゆんらく》などいふ舞どもをなむ、同じ御仲らひの君たち、大人《おとな》たちなど舞ひける。暮れゆけば、御簾《みす》上げさせたまひて、ものの興まさるに、御|孫《むまご》の君たちの容貌《かたち》姿にて、舞のさまも世に見えぬ手を尽くして、御師《おほむし》どもも、おのおの手の限りを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へてめづらかに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。老いたまへる上達部たちは、みな涙落としたまふ。式部卿宮も、御孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。

主《あるじ》の院、「過ぐる齢《よはひ》にそへては、酔泣《ゑひな》きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督心とどめてほほ笑《ゑ》まるる、いと心恥づかしや。さりとも、いましばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老《おい》は、えのがれぬわざなり」とてうち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈《くん》じて、まことに心地もいと悩《なや》ましければ、いみじき事も目もとまらぬ心地する人をしも、さし分きて空酔《そらゑひ》ひをしつつかくのたまふ、戯《たはぶ》れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃《さかづき》のめぐり来るも頭《かしら》いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを御覧じとがめて、持たせながらたびたび強《し》ひたまへば、はしたなくてもてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。

心地かき乱りてたへがたければ、まだ事もはてぬにまかでたまひぬるままに、いといたくまどひて、「例の、いとおどろおどうしき酔《ゑひ》にもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思ひつるに、気《け》ののぼりぬるにや、いとさいふばかり、臆《おく》すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」とみづから思ひ知らる。しばしの酔のまどひにもあらざりけり。やがて、いといたくわづらひたまふ。大臣《おとど》、母北の方思し騒ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿《との》に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。
事なくて過ぐすべき日ごろは心のどかにあいな頼《だの》みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今は、と別れたてまつるべき門出《かどで》にやと思ふは、あはれに悲しく、後《おく》れて思し嘆かむことのかたじけなきをいみじと思ふ。母御息所《ははみやすどころ》も、いといみじく嘆きたまひて、「世の事として、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とあるをりもかかるをりも、離れたまはぬこそ例のことなれ、かくひき別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが心づくしなるべきことを。しばしここにてかくて試みたまへ」と、御かたはらに御|几帳《きちやう》ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。

「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひになまじひにゆるされたてまつりてさぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじくかくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じはてられずやなりはべりなむ、と思うたまふるになん、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また、母北の方うしろめたく思して、「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。我は、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中にまづとりわきて、ゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かく、いとおぼつかなきこと」と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。「人より先なりけるけぢめにや、とり分きて思ひ馴らひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆるをりしも見えたてまつらざらむ、罪深くいぶせかるべし。今は、と頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。必ずまた対面《たいめん》たまはらむ。あやしくたゆく愚かなる本性《ほんじやう》にて、事にふれておろかに思さるることもありつらむこそ、悔《くや》しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮は、とまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。

大殿に待ちうけきこえたまひて、よろづに騒ぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどうしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらにまゐらざりけるに、いとどはかなき柑子《かうじ》などをだに触れたまはず、ただ、やうやう物に引き入るるやうにぞ見えたまふ。さる時の有職《いうそく》のかくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御とぶらひに参りたまはぬ人なし。内裏《うち》よりも、院よりも、御とぶらひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思しめしたるにも、いとどしき親たちの御心のみまどふ。六条院にも、いと口惜しきわざなりと思しおどろきて、御とぶらひに、たびたび、ねむごろに父|大臣《おとど》にも聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、け近くものしたまひつつ、いみじく嘆き歩きたまふ。

御賀は、二十五日になりにけり。かかる時のやむごとなき上達部《かむだちめ》の重くわづらひたまふに、親はらから、あまたの人々、さる高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々にとどこほりつることだにあるを、さてやむまじき事なれば、いかでかは思しとどまらむ。女宮の御心の中《うち》をぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。例の五十寺《ごじふじ》の御|誦経《ずきやう》、また、かのおはします御寺にも摩訶毘廬遮那《まかびるさな》の。

現代語訳

十二月になった。御賀の日を十日すぎと定めて、数々の舞を馴れるまで練習し、殿の内はざわめいて大騒ぎする。二条院の上(紫の上)は、まだ六条院にお移りになっていらっしゃらなかったが、この試楽のために、ついにお気持ちを鎮めることがおできにならず、お移になられた。女御の君(明石の女御)も里に戻っていらっしゃる。今回お生まれになられた皇子は、またも男子でいらっしゃるのだった。次々とお生まれになる方がまことに可愛らしくてしていらっしゃるのを、院は(源氏)は、明けても暮れても遊び相手になってさしあげるにつけ、年をとったかいがあったものだと、うれしくお思いになるのだった。試楽に、右大臣殿の北の方(玉鬘)もおいでになられた。大将の君(夕霧)は、丑寅の町で、まず内々に、調楽のように明けても暮れても管弦の遊びをなさっていたので、かの御方(花散里)は、御前での試楽はご覧にならない。

衛門督(柏木)を、こういう行事の折に参加させないのは、ひどく冴えないことで、物足りないだろうことに加えて、人が、妙だと首をかしげるにちがいないので、参上なさるようにご連絡があったのを、衛門督は、重くわずらっていることを申して参上しない。実は、これといった苦しげな病でもなさそうなので、『何か思い悩んでいるのだろうか』と、院は気の毒にお思いになられて、わざわざお手紙をおやりになる。父大臣も、「どうして、ご辞退したのだ。ひねくれているように、院(源氏)もお思いになられるだろうに、そう大げさな病でもないのだから、我慢して参上しなさい」とおすすめなさっているところに、こうして重ねてご催促があったので、衛門督は、つらいと思いながら、参上した。

まだ上達部などもお集まりにならないころであった。いつものように、院(源氏)は衛門督(柏木)を、ほど近い御簾の内にお入れになられて、母屋の御簾をおろして、中に座っていらっしゃる。なるほど、衛門督はひどく痩せ細って青ざめて、ふだんも、誇らしく派手にふるまうという面においては、弟の君たちにはひけを取って、たいそう心遣いが行き届いていそうな顔でとりすましているさまは、世間並みの人とはちがっているのに、今は、いよいよ落ち着いていらっしゃる。その様子は、皇女たちの婿君として並べてみても、すこしも問題もあるはずもない。ただし今回の事件の顛末は、衛門督も、女三の宮も、まことに思慮の浅いことがひどく罪ゆるしがたいこととして、院(源氏)は御目を注がれる。しかしそれを表には出さず、とてもやさしく、(源氏)「これという用事がなかったので、ひどく長い間、対面せずにいたものです。ここ幾月かは、いろいろと病人の世話をして、心の余裕がない時期だったので、院(朱雀院)の御賀のため、ここにいらっしゃる皇女(女三の宮)が、法事のご用をおとつめ申し上げるべきところでしたが、次々とさしさわりが多くでてきまして、こうして年もおしつまってきましたので、思っている通りにしおおせることはできずに、ほんの形ばかり、精進料理を差し上げようと思っているのですが、御賀などといえば大げさなようではありますが、わが家に生まれた子供たちが、数多くなったのを、院にご覧に入れようというつもりで、舞など習わしはじめたのですが、せめてその催しだけは果たしたいと思いまして、拍子をととのえることは、貴方をおいて他に誰に頼めるだろうかと思いめぐらした末に、幾月もご訪問くださらなかった恨みも、棄てて、お呼びしたのですよ」と院が仰せになられるご様子が、何の裏もないようであるが、衛門督(柏木)は、それがかえってひどく気後れして、自分の顔色が変わっているだろうと思えて、すぐに御返事も申し上げることができない。

(柏木)「ここ幾月かは、あちらの方こちらの方と、ご病人にお思い悩んでいらっしゃる旨を承って、ご心配申し上げておりましたが、私も、春のころから、ふだんから患ってございます脚気というものがひどく起こって、困っておりまして、しっかりと地を踏んで立つこともままならず、月が重なるごとに悪くなってまいりまして、宮中などにも参らず、世間とも縁を絶ったようにして引きこもっております。院(朱雀院)の御年齢がちょうどにおなりあそばす年で、人よりもしっかりとそのご年齢を数え申し上げてお仕え申し上げるべきことを、致仕の大臣が思い及んで申しておりましたが、『すでに冠をかけ、車を惜しまず棄てた身で、進んでお仕え申し上げようにも、つくべき席がない。お前はなるほど官位は低いが、私と同じくらい、院の御賀をお祝い申し上げる気持ちは深いものがあろうから、その気持を院にご覧に入れよ」と、私にすすめ申されたことがございましたので、重い病をおして、参ったのでございます。院(朱雀院)は、今は、いよいよこじんまりしたお暮らしぶりで、お気持ちをお澄ましになられて、仰々しい御祝事を待ち受け申されることは、願わしいともおぼしめされないだろうと拝見いたしますので、さまざまな行事を簡略化なさって、静かにお話をしたいという、院の深い御願いを叶うようにしてさしあげられるほうが、よろしゅうございましょう」と申し上げなさると、仰々しいことだったと聞いている先日の御賀の事を、女二の宮のご主催のこととは言わず、あえて父大臣主催のこととして言うのも、思慮の行き届いたことだと、院(源氏)はお思いになる。

(源氏)「まさしく私もそう思っていたのです。簡素なさまに御賀を行えば、世間の人は私の院に対する志が浅いように思うでしょうが、そうはいっても、貴方は事情をよくわかって言ってくださるから、やはりそうだったかと、私はますますそのつもりになっております。大将(夕霧)は、公務においては、しだいに大人びてきたようですが、このようにな風流方面のことは、もともと向いていないのでしょうか。かの院(朱雀院)は、何ごとにも通じていらっしゃらないことはめったにないですが、その中にも、音楽の方面の事はとくにご熱心で、まことにすみずみまでご存知でいらっしゃいます。だから、今の話のように、俗世のことを思い棄てたようではあっても、御心を澄まして静かにお聴き入りなさるということであっては、かえって今こそ心遣いがされるように思えるのです。かの大将(夕霧)といっしょに世話をして、舞に参加する童たちの嗜みや心構えを、よくお教えになってください。物の師匠などというものは、自分の専門分野だけはともかくして、全体においてはひどく行き届かないものです」など、院(源氏)が、とても優しい様子をつくって仰せになられるのを、衛門督(柏木)は、うれしくはあるが、心苦しく気が引けて、言葉少なく、この院の御前をはやく立ち去りたいと思うので、いつものようにこまごまとした返事もなく、ようやく滑り出すように退出した。

東の御殿にて、大将(夕霧)のご用意になられた楽人、舞人の装束のことなどに、衛門督がさらに趣向をお加えになる。大将が、まことにできる限りの工夫を尽くしていらっしゃるところに、衛門督が、いよいよ詳しい心遣いを添えるにつけても、なるほど、衛門督は、この道においては、まことに造詣が深い方でいらっしゃるようである。

今日は、こうした試楽の日だが、御方々が見学なさるだろうから、見ばえしないことにはさせないということで、かの御賀の当日には、赤い白橡《しらつるばみ》の袍衣に葡萄染の下襲を着る予定だから、今日は、青色の袍衣に蘇芳襲を着て、楽人三十人は今日は白襲を着ているが、東南の方の釣殿につづいている廊を舞台として、築山の南の端から御前に歩み出たときに、仙遊霞《せんゆうか》という曲が奏せられて、雪がほんのすこし花びらのように散るのは、春がすぐ近いことを思わせ、梅のようすは蕾が開いていて、見がいがある。院(源氏)は廂の間の御簾の内にいらっしゃるので、式部卿宮と右大臣だけがお控えなさって、それより身分の低い上達部は、特にかしこまった日ではないので、御饗応などは手軽にしてさしあげた。

右の大殿(髭黒)の四郎君と、大将殿(夕霧)の三郎君と、兵部卿宮の孫王の君たち二人は万歳楽を、まだとても小さい頃であって、まことにかわいらしい。四人とも、いづれ劣らぬ高貴な家の子であって、顔立ちも美しげで、着飾っているのは、そう思うせいであろうか、気品がある。また、大将(夕霧)の御子の典侍腹の二郎君と、式部卿宮の兵衛督といった方で、今は源中納言となっている人の御子が皇麞《おうじょう》を、右の大殿(髭黒)の三郎君が陵王を、大将殿(夕霧)の太郎が落蹲《らくそん》を、あるいは、太平楽・喜春楽などという舞の数々を、同じご一族の子供たちや大人たちなどが舞うのだった。日が暮れていくにつれて、院(源氏)は御簾をお上げになられて、舞楽の風情がましてくるにまかせて、まことに可愛らしい御孫の君たちが素顔の姿で舞うさまも、世間に例のない趣向を尽くして、御師たちも、めいめい手の限りをお教え申し上げたので、深い才覚を加えて滅多にないようすに舞われるのを、いずれも、実に可愛らしいとお思いになられる。年老いていらっしゃる上達部たちは、みな涙を落とされる。式部卿宮も、御孫のことをお思いになられて、御鼻が色づくまで涙にくれていらっしゃる。

主人である院(源氏)が、「過ぎる年波につれて、酔い泣きが止められないことですよ。衛門督が気づいて笑ってますが、なんとも恥ずかしいことで。そうはいっても、その若さももう少しのことでしょう。年月は逆に進むことはないのですから。老いは、誰も逃れられないことです」といって衛門督(柏木)をご覧になると、他の人よりひどく深刻に、ふさぎこんで、実際に気分もひどくすぐれないので、見事な舞にも目がとまらない気持ちがするその人を、わざわざ名指しして、酔ったふりをしながらこうおっしゃるのが、冗談のようではあるが、衛門督はひどく胸がつまって、盃がめぐり来るのも頭が痛く思えたので、ほんの形だけ盃を受けてごまかすのを、院(源氏)はお見とがめになられて、盃を持たせたまま、たびたびご強要なさるので、衛門督が居心地が悪くて困っているさまは、そこいらの人とは比較にならないほど美しい。

語句

■舞ども 御賀で舞う舞の練習がさかんになる。 ■えしづめはてて 紫の上は病のためしばらく二条院で療養していたが、病も小康状態となり、発病以前の音楽への興味がもどってきた。 ■大将の君 夕霧は歌舞の責任者をつとめる。前に「楽所のこと行ひたまはむに」(【若菜下 36】)とあった。 ■丑寅の町 花散里の居所。 ■調楽 私事として内々に練習している。 ■御前のものは見たまはず 日頃から「調楽のやう」な演奏を聴いているので、わざわざ試楽を聴きにいく必要がない。 ■かかる事 朱雀院の御賀の試楽という、六条院あげての行事。 ■いとはえなく… 柏木が音楽に堪能なことからいっても彼を入れないのは物足りない。 ■中に 上の条件を受けて、さらに、の意。 ■人、あやし、と… 前も「人、あやしと思ふらんと思せど」(【若菜下 37】)とあった。 ■とり分きて御消息 わざわざ柏木を名指しで招く。 ■おどろおどろしき病にもあらず たいした病でないことは実父である大臣にはわかっている。 ■母屋の御簾おろして 源氏は母屋の中に座っており、御簾を隔てて柏木は廂の間にいる。 ■げに 病気と聞いていたとおり。 ■誇りかに華やぎたる方 誇らしく派手好みな点。柏木はそうではないとする。 ■皇女たちの御傍に… 柏木は皇女たちの婿となるのにふさわしい資質をそなえているとする。 ■事のさま 今回の密通事件。 ■誰も誰も 柏木も、女三の宮も。 ■思ひやりなき 思慮の浅いこと。 ■御目とまれど 源氏は母屋の中から御簾を通して外にいる柏木を凝視する。前の柏木の「いかでかは目をも見あはせたてまつらむ」(【若菜下 33】)とも照応。 ■病者 紫の上の病や女三の宮の懐妊。 ■法事 朱雀院が出家の身なのでこういう。 ■型のごとく 簡略に。ほんの形ばかり。 ■斎 精進潔斎すること。転じて、仏事の際の食事。 ■童べの 多くの孫たちに舞を習わせていた(【若菜下 12】)。 ■また誰にかは 柏木以外に頼める人はいないと持ち上げる。 ■いといと恥づかしき 柏木は源氏の丁重すぎる態度にかえって恐縮する。 ■春のころほひより 女三の宮との密通が四月十余日(【若菜下 26】)なので、それ以前から。 ■脚病 脚気。 ■院の御齢足りたまふ年なり… 十月に行われた朱雀院五十の賀は女二の宮主催とあった(【若菜下 36】)が、ここでは致仕の大臣主催とする。これから主催する女三の宮に余計な気遣いをさせまいとする配慮か。 ■冠を挂け… 太政大臣を辞任する際、同種のことを言っていた(【若菜下 07】)。「車を惜しまず」は「七十ニシテ老イテ致仕シテ、其ノ仕フル所ノ車ヲ懸ケテ諸廟ニ置ク」(孝経)などによる。 ■重き病をあひ助けて… 致仕の大臣が柏木に六条院参上ことをすすめたときにも「助けて参りたまへ」と言った。 ■事どもをばそがせたまひて 源氏は御賀を「型のごとく」簡略に行おうとしている。柏木は源氏のその意図が正しいと、同意した形となる。 ■いかめしく聞きし御賀の事… 十月の御賀を主催したのが女ニの宮であれば、これから主催する女三の宮はそれと張り合うように仰々しい御賀を開かざるを得ない。柏木は十月の御賀が致仕大臣主催とすることで、女三の宮主催の御賀を派手派手しく行う必要がないようにする。 ■ただかくなん 直前の柏木の言った内容に、まさにそのとおりだと同意する気持ち。 ■浅く 源氏の朱雀院に対する真心が浅いと。 ■心得て 柏木が、朱雀院の真意をよく理解して言ったの意。 ■さればよ 御賀を簡略にやろうというのは自分だけの考えではなかったとの気持ち。 ■思ひなられはべる 自然に納得される気持ち。 ■情けびたる方 音楽など風流方面のこと。夕霧は女楽の拍子をとり、楽所の統率者であるので、必ずしも「情けびたる方」に疎いわけではない。源氏は夕霧を落とすことによって柏木を持ち上げているのである。 ■さこそ思し棄てたるやうなれ… 柏木の「いよいよとかすかなるさまに思し澄まして」に対応した言い方。 ■心づかひせらるべき 音楽に造詣の深い朱雀院を満足させるためには。 ■東の御殿 花散里の居所。 ■またまた 夕霧の采配に柏木の意見が加わる。 ■あるべき限り… 綺羅を尽くしているようす。 ■げに 源氏が繰り返し柏木を褒めているように。 ■御方々 六条院の御方々。御賀の当日は主役の女三の宮以外は参加できない。 ■赤き白橡 「白橡」は橡で染めた白茶色に近い色。「赤き白橡」はそれの赤みがかったもの。 ■葡萄染 赤みがかった少し薄い紫色の染物。 ■白襲 表も裏も白い襲。 ■廊 中門のある廊。 ■仙遊霞 舞楽の曲名。院を仙洞ということに通じる。 ■春のとなり近く 春の近いことを実感している表現。「冬ながら春の隣の近ければ中垣よりぞ花は散りける」(古今・雑躰 清原深養父)。 ■梅のけしき見るかひありて… 「にほはねどほほゑむ梅の花をこそ我もをかしと折りてながむれ」(曾丹集)を引くとする説がある。 ■右の大殿の四郎君 玉鬘腹の第ニ子。 ■兵部卿宮の孫王 宮の子だから孫王(天皇の孫)。 ■万歳楽 雅楽の曲名。四人舞で祝賀の宴で舞われた。 ■式部卿宮の兵衛督といひし、今は源中納言 「式部卿宮の兵衛督」が現在の「源中納言」。臣籍に降下して源氏となった。 ■皇麞 舞楽の曲名。童舞。 ■右の大殿の三郎君 玉鬘腹の第一子。 ■陵王 舞楽の曲名。仮面をつけて一人で舞う。羅陵王、蘭陵王とも。 ■落蹲 舞楽の曲名。二人舞の納曽利(なそり)を一人で舞うときの呼称。 ■太平楽 舞楽の曲名。四人舞。即位の大礼の後などに演じる。 ■喜春楽 同じく舞楽の曲名。四人舞。大安寺の僧安操作という。 ■御孫 皇麞を舞った源中納言の子。 ■過ぐる齢にそへては… 以下の台詞は年老いた自分を憐れむ自嘲からはじまり、柏木への痛烈な皮肉に転じる。 ■ほほ笑まるる 柏木は源氏を畏怖しており、嘲笑するはずがない。これはあくまで源氏視点からの皮肉。 ■うち見やりたまふ 源氏は恨みをこめて柏木を凝視する。柏木が源氏の目を怖れているさまは、何度か語られてきた(【若菜下 27】【同 33】)。 ■いみじき事 舞楽の見事さ。 ■空酔 源氏は酔ったふりをして本心を出す。 ■御覧じとがめて 源氏は柏木をねちねちと雰囲気で追い詰める。 ■

朗読・解説:左大臣光永

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