【匂宮 05】薫、わが出生の謎に悩む

母宮は、今はただ御行ひを静かにしたまひて、月ごとの御念仏、年に二《ふた》たびの御八講《みはかう》、をりをりの尊き御営みばかりをしたまひて、つれづれにおはしませば、この君の出で入りたまふを、かへりては親のやうに頼もしき蔭に思したれば、いとあはれにて、院にも内裏《うち》にも召しまつはし、春宮も、次々の宮たちも、なつかしき御遊びがたきにてともなひたまへば、暇《いとま》なく苦しく、いかで身を分けてしがなとおぼえたまひける。

幼心地《をさなごこち》にほの聞きたまひしことの、をりをりいぶかしうおぼつかなう思ひわたれど、問ふべき人もなし。宮には、事のけしきにても知りけりと思されん、かたはらいたき筋なれば、世とともの心にかけて、「いかなりける事にかは。何の契りにて、かう安からぬ思ひそひたる身にしもなり出でけん。善巧太子《ぜんげうたいし》のわが身に問ひけん悟《さと》りをも得てしがな」とそ独りごたれたまひける。

おぼつかな誰《たれ》に問はましいかにしてはじめもはても知らぬわが身ぞ

答《いら》ふべき人もなし。事にふれて、わが身につつがある心地するも、ただならずもの嘆かしくのみ思ひめぐらしつつ、「宮もかく盛りの御|容貌《かたち》をやつしたまひて、何ばかりの御|道心《だうしん》にてか、にはかにおもむきたまひけん。かく、思はずなりける事の乱れに、かならずうしと思しなるふしありけん。人もまさに漏り出で知らじやは。なほつつむべき事の聞こえにより、我には気色を知らする人のなきなめり」と思ふ。「明け暮れ勤めたまふやうなめれど、はかもなくおほどきたまへる女の御悟りのほどに、蓮《はちす》の露も明らかに、玉と磨《みが》きたまはんことも難《かた》し。五つの何がしもなほうしろめたきを、我、この御《み》心地を、同じうは後《のち》の世をだに」と思ふ。かの過ぎたまひにけんも安からぬ思ひにむすぼほれてやなど推《お》しはかるに、世をかへても対面《たいめん》せまほしき心つきて、元服はものうがりたまひけれど、すまひはてず、おのづから世の中にもてなされて、まばゆきまで華やかなる御身の飾《かざり》も心につかずのみ、思ひしづまりたまへり。

内裏にも、母宮の御方ざまの御心寄せ深くて、いとあはれなるものに思され、后《きさい》の宮、はた、もとよりひとつ殿《おとど》にて、宮たちももろともに生ひ出で遊びたまひし御もてなしをさをさ改めたまはず。「末に生《む》まれたまひて、心苦しう、おとなしうもえ見おかぬこと」と、院の思しのたまひしを思ひ出できこえたまひつつ、おろかならず思ひきこえたまへり。右大臣も、わが御子《みこ》どもの君たちよりも、この君をば、こまやかにやむごとなくもてなしかしづきたてまつりたまふ。

現代語訳

若君(薫)の母宮(女三の宮)は、今はただ仏事のお勤めを静かになさって、毎月の御念仏、年に二度の御八講、時々の尊い御仏事だけをなさって、暇でいらっしゃるので、この君(薫)が御邸(三条宮)に出入りなさるのを、かえって親のように頼もしい姿とお思いになっておられるので、若君はひどくそれがおいたわしい。その上、院(冷泉院)も、帝(今上帝)も、若君をおそばにいつもお招きになり、東宮も、それより身分の劣る宮たちも、親しみやすい御遊び相手として若君(薫)を連れていらっしゃっる。それで若君は母宮をお訪ねする暇もなくて苦しく、何とかして身を二つに分けたいとお思いになっていらっしゃるのだった。

子供心にそれとなくお耳にされたことが、時々いぶかしく、気がかりなことに、ずっと思っていらっしゃる。だが質問できる人もいない。母宮(女三の宮)には、それとない雰囲気としても「そのことを知っている」とお思いになるのが、気詰まりなことなので、常に心にかけて、(薫)「自分の出生はどういう事なのだろう。どういう前世からの定めで、こんなにも安心できない思いが加わる身として生まれてきたのだろう。善巧太子が出生の謎をわが身に問いかけたというが、そうした知恵を私も得たいものだ」と独りつぶやかれるのだった。

(薫)おぼつかな……

(おぼつかないことだ。誰に問えばいいのか。どういうわけで生まれも将来もわからないわが身なのであろうか、と)

答えるような人はない。何かにつけて、わが身に病があるような気がするのも、並々ならず嘆かわしくばかりお思いめぐらしては、「母宮(女三の宮)もああして女盛りの御身をおやつしになって、どれほどの御道心なのか、急にご出家なさったことだ。思いもよらぬもめ事があって、きっと、世の中を憂きものとお悟りになる事情がおありだったのだろう。世間の人たちも、その秘密を漏れ聞いて知っているにちがいない。それでもやはり隠しはばかるべき話なのだから、私には事の次第を知らせる人がないようだ」と思う。「母宮(女三の宮)は、朝夕仏事のお勤めをなさるようだが、頼りなげにおっとりしていらっしゃる女の御悟りの程度では、蓮の露のような清らかな心で、極楽往生なさることも難しい。女が往生するには五つの障害などがあるというのもやはり気がかりなので、私も出家して、母君のこのお気持ちをお助けして、同じことならせめて後世だけでも幸せになっていただきたい」と思う。「あの亡くなった御方(柏木)も、往生できない思いに捕らわれて迷っているのではないか」など推量するにつけ、この世ではない別の世であってもお逢いしたい気持ちが起こって、元服は気が進まなくていらしたが、辞退しがたくて、自然と世の中からもてはやされて、まばゆいまでに華やかな御身のめでたさであるが、心ここにあらずという感じにばかり、落ち着いていらっしゃる。

帝(今上帝)も、母宮(女三の宮)の御血筋から、若君(薫)に対してご贔屓が深くて、とても可愛いものとお思いになり、后の宮(明石の中宮)もまた、もともと同じ御殿(六条院)で、宮たちも一緒に生まれて若君とお遊びになっていらした御ふるまいを、そうそうお改めにはならない。(源氏)「わが晩年にお生まれになって、心苦しいことだが、立派に成長なさる行く末を見届けることもできないことだ」と、院(源氏)がお思いになりまたそうおっしゃったのを、后の宮(明石の中宮)はお思い出し申されては、若君(薫)のことを、並々ならず愛おしくお思い申し上げていらっしゃるのだった。右大臣(夕霧)も、ご自分の御子の君たちよりも、この若君(薫)のことを、こまごまと大切に世話してさし上げていらっしゃる。

語句

■母宮 薫の母宮。女三の宮。二品の宮。 ■御八講 ■御八講 法華八講会。『法華経』全八巻を、四日間、八回にわたって講釈する。 ■出で入りたまふ 薫が三条宮に。薫の住まいは冷泉院である。 ■次々の宮たち 二の宮、三の宮(匂宮)。 ■御遊びがたきにて 薫は源氏の子であるから皇族と同格とみなされ、幼い頃から宮たちの遊び相手となっている(【横笛 07】)。 ■身を分けて 一方は宮たちの遊び相手をつとめ、一方は母宮にお仕えしたいと思う。 ■ほの聞きたまひしこと 女房たちがそれとない噂話に薫の出生を語るのだろう。 ■世とともの 常に。 ■善巧太子 釈迦の子羅睺羅。母耶輸陀羅《やしゅだら》の胎内に六年間いて父の出家後に生まれ、実の子か疑われた。 ■おぼつかな… 「問はまし」は前の「わが身に問ひけん」を受ける。 ■答ふべき人もなし 前の「問ふべき人もなし」に対応。 ■つつがある心地 「恙ある」心地。病があるような感じ。 ■かくさかりの… 女三の宮は二十二、三歳で出家した(【柏木 05】)。 ■事の乱れ 薫は、母宮が故父との間になんらかの揉め事があった末に出家したと想像している。 ■まさに 反語。下の「やは」で結ぶ。 ■おほどきたまへる 「おほどく」はおっとりしている。 ■蓮の露も明らかに 「蓮葉の濁りに染まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」(古今・夏 遍照)。「善ク菩薩道ヲ学ビテ、世間ノ法ニ染マザルコト、蓮花ノ水ニ在ルガ如シ」(法華経・涌出品)による。 ■五つの何がし 五障。女には往生のさまたげとなる障りが五つあるという仏教の教え。『法華経』提婆達多品などにみえる。 ■なほうしろめたき 出家の後でもやはり。 ■我 自分も出家して。 ■同じうは後の世をだに 何が「同じ」なのか、いまいちわからない。どうせ心配事を背負い込むことは同じだからの意か。往生が難しいのは同じだからの意か。「だに」の後に「助けたてまつらむ」などを補い読む。 ■かの過ぎたまひにけん 柏木のことらしいが、初見でそれを理解するのはムリだろう。あまりにも説明不足な文章。 ■安からぬ思ひにむすぼほれて 往生できずに迷っているのではないかの意(【柏木 02】【横笛 06】)。 ■元服はものうがり 元服すると結婚しなくてはならず、ますます出家から遠のくから。 ■すまひはてず 「すまふ」は断る。辞退する。 ■母宮の御方ざま 今上帝は女三の宮の兄。 ■右大臣 夕霧。夕霧と薫は公式には異母兄弟。 ■わが御子どもの君たち 夕霧の子息は六人(【夕霧 36】)。

朗読・解説:左大臣光永