【竹河 07】正月下旬、薫、蔵人少将、玉鬘邸を訪れ宴に加わる

侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひければ、二十余日のころ、梅《むめ》の花盛りなるに、にほひ少なげにとりなされじ、すき者ならはむかし、と思して、藤侍従《とうじじゆう》の御もとにおはしたり。中門《ちゆうもん》入りたまふほどに、同じ直衣《なほし》姿なる人立てりけり。隠れなむと思ひけるをひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将なりけり。寝殿の西面《にしおもて》に琵琶《びは》、箏《さう》の琴《こと》の声するに、心をまどはして立てるなめり。「苦しげや。人のゆるさぬこと思ひはじめむは罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴《こと》の声もやみぬれば、「いざ、しるべしたまへ。まろはいとたどたどし」とて、ひき連れて、西の渡殿《わたどの》の前なる紅梅《こうばい》の木のもとに、梅《むめ》が枝《え》をうそぶきて立ち寄るけはひの花よりもしるくさとうち匂へれば、妻戸おし開《あ》けて、人々あづまをいとよく掻《か》き合はせたり。女の琴《こと》にて、呂《りよ》の歌はかうしも合はせぬを、いたし、と思ひて、いま一返《ひとかへ》りをり返しうたふを、琵琶《びは》も二《に》なくいまめかし。ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし、と心とまりぬれば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。

内より和琴《わごん》さし出でたり。かたみに譲りて手触れぬに、侍従の君して、尚侍《かむ》の殿、「故致仕《こちじ》の大臣《おとど》の御|爪音《つまおと》になむ通ひたまへると聞きわたるを、まめやかにゆかしくなん。今宵は、なほ鶯にも誘はれたまへ」と、のたまひ出だしたれば、あまえて爪食ふべきことにもあらぬをと思ひて、をさをさ心にも入らず掻きわたしたまへるけしきいと響き多く聞こゆ。「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずなりにきと思ふにいと心細きに、はかなき事のついでにも思ひ出でたてまつるに、いとなんあはれなる。おほかた、この君は、あやしう故大納言の御ありさまにいとようおぼえ、琴の音《ね》など、ただそれとこそおぼえつれ」とて泣きたまふも、古めいたまふしるしの涙もろさにや。

少将も、声いとおもしろうて、「さき草」うたふ。さかしら心つきてうち過ぐしたる人もまじらねば、おのづからかたみにもよほされて遊びたまふに、主《あるじ》の侍従は、故大臣《こおとど》に似たてまつりたまへるにや、かやうの方《かた》は後《おく》れて、盃《さかづき》をのみすすむれば、「寿詞《ことぶき》をだにせんや」と辱《は》づかしめられて、竹河《たけかは》を同じ声に出だして、まだ若けれどをかしううたふ。簾《す》の内より土器《かはらけ》さし出づ。「酔《ゑひ》のすすみては、忍ぶることもつつまれず、ひが事《こと》するわざとこそ聞きはべれ。いかにもてないたまふぞ」ととみに承《う》け引かず。小袿《こうちき》重なりたる細長《ほそなが》の人香《ひとが》なつかしう染《し》みたるを、とりあへたるままにかづけたまふ。「何ぞもぞ」などさうどきて、侍従は主《あるじ》の君にうちかづけて去《い》ぬ。ひきとどめてかづくれど、「水駅《みづむまや》にて夜更《よふ》けにけり」とて逃げにけり。

現代語訳

侍従の君(薫)は、まじめな人という名をいまいましいと思ったので、二十日すぎごろ、梅の花盛りの頃、「風流心が乏しいと言われたくない。好色な男のやりようにならってみよう」とお思いになって、藤侍従のもとにおいでになった。中門にお入りになろうとする時に、同じ直衣姿の人が立っているのだった。

その者が隠れようと思ったのを君(薫)が引きとどめてみると、この御邸(玉蔓邸)にいつも入り浸っている少将(蔵人少将)なのであった。

寝殿の西面に琵琶や箏の弦楽器の音がするので、そわそわして立っているようである。「はた目にも苦しそうだ。相手の親がゆるしてもいないのに懸想心を抱くのは、罪深いことだ」と思う。弦楽器の音もやんだので、(薫)「さあ、案内してくれたまえ。私はまったく不案内なものだから」と蔵人少将に言って、ひき連れて、西の渡殿の前にある紅梅の下に、「梅が枝」を口ずさんで立ち寄られる。その気配が、紅梅の花よりもはっきり、さっと匂ったので、妻戸をおし開けて、女房たちが和琴を実にうまく合奏した。女の琴では呂の音はこうはうまく合奏できないのに、これはたいしたものだと思って、君(薫)はもう一度「梅が枝」を折り返し歌うと、琵琶も他に類もなく優美である。嗜み豊かにお暮らしになっているあたりだなと、心惹かれたので、今宵はすこしうちとけて、とりとめもない話をしたりなどもする。

御簾の内から和琴を差し出してきた。侍従の君(薫)と少将(蔵人少将)は譲り合って手をふれないでいると、侍従の君(藤侍従)に仰せになって、尚侍の殿(玉蔓)が、「故致仕の大臣の御爪音に似ていらっしゃるとずっと聞いておりましたので、まことにお聞きしてみたいのです。今宵はやはり鶯にも誘わたおつもりで、ゆっくりなさってください」と外に向かっておっしゃるので、侍従の君(薫)は、はにかんでいるべきではないと思って、まったく身を入れてではないが、一通り演奏なさる様子は、とても響きがゆたかに聞こえる。

(玉蔓)「いつも拝見して親しんでいたわけではない親(致仕の大臣)ですが、お亡くなりになったと聞くとひどく心細いのです。些細な事のついでにも父大臣(致仕大臣)のことを思い出し申し上げて、とても悲しく思っております。いったい、この君(薫)は、不思議と故大納言(柏木)の御姿にとてもよく似ていて、琴の音など、まったく故大納言(柏木)そのままと思います」といってお泣きになるのも、お年を召されたあかしの涙もろさだろうか。

少将(蔵人少将)も、声がとても美しくて、「さき草」を歌う。差し出がましい気持ちを起こして出しゃばってくる人も居合わせていないので、自然とお互いに興が乗って歌ったり楽器を奏でたりしていらっしゃると、主の侍従(藤侍従)は、故大臣(故髭黒太政大臣)に似ていらっしゃるのだろうか、こうした音楽などの方面には苦手で、盃だけをすすめているので、「せめて祝い言だけでもつとめてはどうか」となじられて、「竹河」を薫と同じ声に出して、まだ未熟だが見事に歌う。尚侍の君(玉蔓)が簾の内から盃を差し出す。(薫)「人は酔が進むと、抑えていることも我慢できなくなり、よからぬ事をしでかすと聞いております。私をどうなさるおつもりですか」と、すぐには盃をお受けにならない。小袿を重ねてある細長で人の香がよい感じに染みているのを、とりあえずそのまま、この君(薫)の肩におかけになる。(薫)「何としたことです」などと騒ぎ立てて、侍従(薫)は、主の君(藤侍従)の肩にそれをかけて、立ち去った。主の君(藤侍従)は侍従(薫)をひきとどめて細長を侍従(薫)の肩にかけ返そうとするが、侍従(薫)は「水駅《みづうまや》にて夜が更けてしまいました」といって逃げてしまった。

語句

■二十余日 読みは諸説あり未詳。 ■藤侍従 髭黒の三男。前の「主の侍従」。 ■中門 寝殿の西面に行くための西の中門だろう。 ■同じ直衣姿なる人 【末摘花 04】に似た場面があった。若き日の源氏と頭中将(後の、致仕大臣)が女のもとではちあわせる。 ■少将 蔵人少将。夕霧の子。 ■梅が枝 「梅が枝に、来ゐる鶯、や、春かけて、はれ、春かけて、鳴けどもいまだ、や、雪は降りつつ、あはれ、そこよしや、雪は降りつつ」(催馬楽・梅が枝)。 ■うそぶきて 「うそぶく」は口ずさむ。 ■妻戸 寝殿の西面の妻戸だろう。 ■あづま 東琴。六弦の楽器。和琴《わごん》。倭琴《やまとごと》。調べの一種とする説も。 ■女の琴にて 和琴について「大和琴とはかなく見せて、際もなくしおきたることなり。広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる」(【常夏 03】)、「和琴こそ、いくばくならぬ調べなれど、跡定まりたることなくて、なかなか女のたどりぬべけれ」(【若菜下 16】)とあった。 ■呂 音楽の調子は律と呂に二分される。律は中国渡来の音で長調的な音、呂は日本風の短調的な音という。 ■思ひて このあたり薫の動作に敬語のないのが目立つ。 ■故致仕の大臣 昔の頭の中将。和琴の名手だった(【若菜上 12】)。 ■鶯にも誘はれたまへ 「鶯ノ声ニ誘引セラレテ花下ニ来タリ 草ノ色ニ勾留セラレテ水辺ニ坐ス」(白氏文集巻十八・春江、和漢朗詠集・鶯)などによる。 ■爪食ふべきこと 決まりが悪くはにかむさま。 ■常に見たてまつり睦びざりし 玉蔓は二十三歳ごろまで父の故太政大臣に会ったことがなかった。 ■いとようおぼえ 玉蔓は薫の実父が柏木であることを知らない。それで二人が似ていることを遠慮なく口に出す。 ■琴の音など 柏木も和琴の名手だった(【若菜下 19】)。 ■ふるめいたまふしるしの涙もろさ 薫は自分の出生の秘密を薄々知っている。なので玉蔓の言葉に「なんとするどい…」とハッとすべき場面である。しかしここは深く掘り下げず、筆者は話題をそらす。 ■さき草 「この殿は、むべも、むべも富みけり、さき草の、三つば四つばの中に、殿づくりせりや、殿づくりせりや」(催馬楽・この殿は)。六条院の栄華を称える。 ■さかしら心つきてうち過ぐしたる人 古参の女房などが余計なおせっかいを焼いて場がしらけることを心配している。 ■故大臣 髭黒は無骨だった。音楽などにも疎かったらしい。 ■寿詞 祝い言。「この殿は」も「竹河」もその類。 ■竹河 「竹河の、橋のつめなるや、橋のつめなるや、花園に、はれ、花園に、我をば放てや、我をば放てや、少女《めざし》たぐへて」(催馬楽・竹河)。 ■細長 薫が酒を辞退するのでかわりに衣を褒美に与える。 ■人香なつかしう 今まで着用していた衣を与える。親密さの表現。 ■何ぞもぞ 催馬楽の曲名らしい。 ■さうどきて 「騒動く」は騒ぎ立てる。 ■水駅にて夜更けにけり ■水駅 男踏歌の一行があちこち巡ることを駅路にたとえ、その途中で酒や湯漬けをふるまう所。

朗読・解説:左大臣光永