【橋姫 12】老女房弁、薫に昔語りをする

たとしへなくさし過ぐして、「あなかたじけなや。かたはらいたき御|座《まし》のさまにもはべるかな。御簾《みす》の内にこそ。若き人々は、もののほど知らぬやうにはべるこそ」など、したたかに言ふ声のさだ過ぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。「いともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人々だに、とぶらひ数まへきこえたまふも見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、あり難き御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへきこえさせはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらん」と、いとつつみなくもの馴れたるもなま憎きものから、けはひいたう人めきて、よしある声なれば、「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、げに思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」とて、よりゐたまへるを、几帳のそばより見れば、曙《あけぼの》のやうやうものの色分かるるに、げにやつしたまへると見ゆる狩衣《かりぎぬ》姿のいと濡れしめりたるほど、うたてこの世のほかの匂ひにやと、あやしきまで薫り満ちたり。

この老人《おいびと》はうち泣きぬ。「さし過ぎたる罪もや、と思うたまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならんついでにうち出できこえさせ、片はしをもほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦《ねんず》のついでにもうちまぜ思うたまへわたる験《しるし》にや、うれしきをりにはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」と、うちわななく気色、まことにいみじくもの悲しと思へり。おほかた、さだ過ぎたる人は涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるもあやしうなりたまひて、「ここにかく参ることはたび重《かさ》なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに独《ひと》りのみそぼちつれ。うれしきついでなめるを、言《こと》な残いたまひそかし」とのたまへば、「かかるついでしもはべらじかし。また、はべりとも、夜の間《ま》のほど知らぬ命の頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者《ふるもの》世にはべりけりとばかり知ろしめされはべらなむ。三条宮にはべりし小侍従はかなくなりはべりにけるとほの聞きはべりし。その昔《かみ》睦ましう思うたまへし同じほどの人多く亡せはべりにける世の末に、遥かなる世界より伝はり参うで来て、この五六年《いつとせむとせ》のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。知ろしめさじかし、このごろ藤《とう》大納言と申すなる御|兄《このかみ》の右衛門督にて隠れたまひにしは。もののついでなどにや、かの御|上《うへ》とて聞こしめし伝ふることもはべらん。過ぎたまひていくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。そのをりの悲しさも、まだ袖のかわくをりはべらず思うたまへらるるを、手を折りて数へはべれば、かく大人《おとな》しくならせたまひにける御|齢《よはひ》のほども夢のやうになん。かの故権大納言の御|乳母《めのと》にはべりしは、弁が母になむはべりし。朝夕《あさゆふ》に仕うまつり馴れはべりしに、人数《ひとかず》にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることををりをりうちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御|病《やまひ》の末つ方に召し寄せて、いささかのたまひおくことなんはべりしを、聞こしめすべきゆゑなん一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りを、と思しめす御心はべらば、のどかになん聞こしめしはてはべるべき。若き人々もかたはらいたく、さし過ぎたりとつきしろひはべめるもことわりになむ」とて、さすがにうち出でずなりぬ。

現代語訳

弁は、たとえようもなく出しゃばってきて、(弁)「なんとかたじけない。失礼な御席のしつらえでございますこと。御簾の内にお入れ申し上げればよろしいのに。若い女房たちは、ものの程度を知らないようでございますから」など、ずけずけと言うその声が年老いているのも、決まりが悪いと姫君たち(大君と中の君)はお思いになる。(弁)「まったくどういうことでしょうか、世の中に住んでいらっしゃる人の数にも入らないような身の上で、お見舞いにきて当然の人々でさえも、訪問してお心にかけ申しあげることも、見えず聞こえずということにばかりなっているようでございますのに、貴方さまの滅多にない御心ざしのほどは、人数にも入らない私などの心にも、あさましいまでに嬉しく思えます。しかし若い姫君たちのお気持ちとしては、貴方の誠実な御心を、おわかりになってはいらっしゃるのですが、お返事を申し上げにくいのでしょうか」と、ひどく無遠慮にもの馴れた言い方なのも何となく憎らしくはあるが、その人(弁)の雰囲気はたいそう人間らしく、気品のある声なので、(薫)「まったく手がかりもない気がしておりましたが、うれしいご様子で。何ごとも、なるほどわかってくださることの頼もしさは、格別なものでして」といって、中将(薫)が物によりかかって座っていらっしゃるのを、几帳のそばから見れば、夜明け前のしだいにものの色がはっきりしてきた中、本当に身をやつしていらっしゃると見える狩衣姿がたいそう濡れしめっているそのようすは、素晴らしく、極楽の匂いだろうかと、不思議なまでに薫りが満ちている。

この老人は泣いた。(弁)「差し出がましいことを言うとお叱りを受けるかもと思いまして我慢しておりましたが、悲しい昔の御物語を、どういう機会に話題に出して話し申し上げ、その片端だけでもほんの少しお知りいただこうと、長年、念誦の折にも時々思い続けていた成果でしょうか、うれしい折でございますのを、早くもあふれ流れる涙にくれて、申しあげることができないのでございます」と、わなないている様子は、実にひどくもの悲しいと思われものである。いったい、年老いた人は涙もろくなるものだと中将(薫)は見聞きしていらしたが、ここまでひどく思っているのも不思議にお思いになって、(薫)「ここにこうして参ることは何度にもなりますが、こうまで物の情緒をお知りになる人もなかったので、露多き道の途中に独りぬれそぼっていた次第でして。うれしい機会と思われますから、すべてお話しになってください」とおっしゃると、(弁)「こうした機会はもうけしてございませんでしょう。また、ございましても、夜の間に亡くなってしまうかもしれないこの命を頼みにすることもできませんので。であれば、ただ、こうした年寄が世にございましたことだけ、お知りいただきましょう。三条宮に仕えてございました小侍従が亡くなったと小耳にはさみました。私は、その昔親しく思っておりました同世代の人が多く亡くなりました晩年になって、はるかな田舎から縁故を頼って上京して、この五六年の間は、ここ(宇治の山荘)にこうしてお仕えしているのでございます。ご存知ではございませんでしょうが、このごろは藤大納言と申しあげるという御方の御兄(柏木)が右衛門督としてお亡くなりになられたことは。何かのついでなどに、あの御方としてお耳に入ることもございましょうか。あの御方がお亡くなりになってからどれほども経たない気ばかりがいたします。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折もないように思われますのに、指を折って数えますと、貴方さま(薫)がこうして大人になられた御年齢も、夢のように思われます。かの権大納言(柏木)の乳母は、弁の母でございました。朝夕いつもお仕え申し上げてございますうちに、人数にも入らぬこの私の身とはいえ、権大納言(柏木)が、人に知らせず、御心からまたあふれたことを折々ほんの少しお話しになるのを、今は最期となられた御病のご臨終の席に私の母を召寄せて、少し言い残すことがございましたのを、貴方さま(薫)にお知らせ申しあげるべき理由がひとつございますが、ここまでお話に出したのでございますから、残りは他の機会に、とお思いになるお気持ちが貴方さまにございましたら、いずれゆっくりとすべてお話しいたしましょう。若い女房たちがいることも決まりが悪く、出しゃばりと陰口を言われますのも道理ですから」といって、さすがにその後は口をつぐんでしまった。

語句

■たとしへなくさし過ぐして 弁の出過ぎた態度。柏木のことが念頭にあり、薫と対面できることを喜ぶあまりのことだろう。 ■かたはらいたき御座のさま 薫の身分の高さに対して席が粗末すぎるという。 ■御簾の内にこそ そこまで言うのは姫君たちの意向に反している。 ■かたはらいたく 弁のような年寄を召し使っていることはこの家が零落していることのあらわれなので。 ■あり難き御心ざし 薫が八宮家に心をかけて訪問してくれることをいう。 ■数にもはべらぬ心 弁自身のことをいう。 ■もの馴れたる 男に応対しなれているの意。 ■けはひいたう人めきて 弁と薫は御簾を隔てて向き合っている。 ■うれしき御けはひ 薫には弁の姿は見えず、気配で感じ取っている。 ■げに思ひ知りたまひける頼み 弁の「数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひ…」をうけて「げに」という。 ■几帳のそばより 女房たちの目を通して薫の姿を見る。 ■この世のほか 極楽のこと。 ■薫り満ちたり 「いと濡れしめ」ているだけにいっそう薫り立つ。 ■昔の御物語 「御」とあるので薫の昔話。 ■片はしをも 事細かくではなくほんの少しでもの意。 ■念誦 心に仏を念じ、口に経文・仏名を唱えること。 ■そぼちつれ 露に濡れた意と涙に濡れた意をかける。 ■三条宮 薫の母、女三の宮の住む邸(【匂宮 03】)。 ■小侍従 女三の宮の乳母子。「小侍従といふかたらひ人は、宮(女三の宮)の御侍従の乳母のむすめなりけり」(【若菜下 25】)。 ■その昔睦ましう… 話題の中心が小侍従の周辺にありそうなことを匂わせつつ、いったん話題を弁自身のことに転じて話をひっぱる。 ■末の世 余命いくばくもない晩年。 ■世界 ここでは地方、田舎のこと。 ■伝はり参うで 縁故を頼って上京した。 ■知ろしめさじかし 注意を引き付ける語り口。 ■藤大納言 柏木の次弟。按察使大納言(【紅梅 01】)。 ■かく大人しくならせたまひにける 薫の誕生後ほどなく柏木が死去した(【柏木 03】【同 07】)。 ■御齢 薫二十ニ歳。 ■権大納言 柏木は死の直前に権大納言に昇進した(【同上】)。 ■かばかり聞こえ出ではべるに… ここまで話したのだから後は察しがついたでしょうの意をこめる。 ■残りを 日と場所をあらためて話のつづきを語りましょうの意。この場で話すと周囲の女房たちにもばれるので。 ■さし過ぎたりと 前の「たとしへなくさし過ぐして」に呼応した結び。

朗読・解説:左大臣光永