【夕霧 29】夕霧、六条院で花散里に落葉の宮を迎えた件を語る つづけて源氏に語る

六条院にぞおはして、やすらひたまふ。東《ひむがし》の上《うへ》、「一条宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御事にかは」と、いとおほどかにのたまふ。御几帳そへたれど、そばよりほのかにはなほ見えたてまつりたまふ。「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故|御息所《みやすどころ》は、いと心強うあるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに御心地の弱りけるに、また見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見《うしろみ》にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりし事にて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人あつかひはべらむかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそもの言ひさがなきものにあれ」と、うち笑ひつつ、「かの正身《さうじみ》なむ、なほ世に経《へ》じと深う思ひたちて、尼になりなむと思ひむすぼほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑《けんぎ》離れても、またかの遺言《ゆいごん》は違《たが》へじと思ひたまへて、ただかく言ひあつかひはべるなり。院の渡らせたまへらんにも、事のついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚《はばか》りはべりつれど、げにかやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」と、忍びやかに聞こえたまふ。

「人の偽《いつは》りにや、と思ひはべりつるを、まことにさるやうある御気色にこそは。みな世の常の事なれど、三条の姫君の思さむことこそいとほしけれ。のどやかにならひたまうて」と聞こえたまへば、「らうたげにものたまはせなす姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらん。かしこけれど、御ありさまどもにても、推しはからせたまへ。なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなく、事がましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚《はばか》らるることあれど、それにしも従ひはつまじきわざなれば、事の乱れ出《い》で来《き》ぬる後《のち》、我も人も憎げにあきたしや。なほ南の殿《おとど》の御心用ゐこそ、さまざまにあり難う、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには見たてまつりはてはべりぬれ」など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、「ものの例《ためし》に引き出でたまふほどに、身の人わろきおぼえこそあらはれぬべう。さてをかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば大事《だいじ》と思《おぼ》いて、いましめ申したまふ、後言《しりうごと》にも聞こえたまふめるこそ、さかしだつ人の己《おの》が上《うへ》知らぬやうにおぼえはべれ」とのたまへば、「さなむ。常にこの道をしも戒め仰せらるる。さるはかしこき御|教《おしへ》ならでも、いとよくをさめてはべる心を」とて、げにをかしと思ひたまへり。

御前《おまへ》に参りたまへれば、かの事は聞こしめしたれど、何かは聞き顔にも、と思《おぼ》いて、ただうちまもりたまへるに、「いとめでたくきよらに、このごろこそねびまさりたまへる御さかりなめれ。さるさまのすき事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず、鬼神《おにがみ》も罪ゆるしつべく、あざやかにもの清げに若うさかりににほひを散らしたまへり。もの思ひ知らぬ若人のほどに、はた、おはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」とわが御子ながらも思す。

現代語訳

大将(夕霧)は六条院においでになって、しばらくお休みになる。東の上(花散里)が、「一条宮(落葉の宮)をお迎え申し上げたと、かの大殿(致仕の大臣)あたりなどで耳にしました、どういう御事なのですか」と、まことにゆったりとおっしゃる。御几帳を御簾に添えてはいらっしゃるが、その御几帳の端からちらちらと、お姿が拝見される。(夕霧)「そのように、やはり世間の人が取り沙汰するような事ではございます。故御息所は、まことに強情に、私と宮の関係を、とんでもないこととお断りになられましたが、ご臨終の際にお気持ちが弱っていらした時、他に後見を頼める人の無いことが悲しかったのでしょう、ご自分が亡くなった後の後見に私を指名するといったことがございましたので、もともと故人(柏木)とのよしみもございましたので、こうして宮のお世話をしようと思うようになりました。そのことを、さまざまに、世間の人がどう取り沙汰しておりますことやら。そんなことはありえないという事についても、世間の人は妙に口さがないものでして」と笑いながら、(夕霧)「あの宮ご自身にしても、これ以上俗世に暮らしていたくないと深く思い立たれて、尼になろうとご決心されたようですので、私が手に入れたとしても何の問題が…。そういうことになったら、あちこちに悪い噂が流れるでしょうが、宮が出家して嫌疑を晴らしたところで、また私は、あの御息所の遺言には背くまいと思いまして、ただこうしてお世話をしているのでございます。院(源氏)がおいでになったら、機会がございましたら、このように、そのままお伝えください。私がずっと真面目に過ごしてきて、今さら色めいた気持ちを起こすのが不満だなどと、院がお思いになりまたおっしゃることには気が引けますが、なるほど、こうした方面のことは、人の諌めにも、自らの心にも、人は従わないもののようでございますな」と、静かに申し上げられる。

(花散里)「人が偽りを言っているのかと思っておりましたが、ほんとうにわけありげなご様子ですね。こういう事はみな世の常の事ですが、三条の姫君(雲居雁)がお悩みになることがお気の毒ですわ。大らかなお暮らしに慣れていらっしゃいますので」と申し上げられると、(夕霧)「姫君(雲居雁)のことを可愛らしげにもおっしゃるものですね。まったく鬼のように口うるさい者ですのに」といって、(夕霧)「どうして、そちら(雲居雁)もおろそかに扱ったりいたしましょうか。畏れ多いことですが、こちらの六条院の御方々のご様子とあわせて、ご推察ください。ただ大らかであることこそ、人として結局はあるべき姿なのでしょう。妻が口うるさく、あえて事を構えようとするのも、少しの間はなんとなく面倒で、煩わしいようで、夫はそれに遠慮することはあっても、結局、男はそんな妻の嫉妬などに従うことはないのですから、何かのまちがいがおこった後は、自分も相手も憎らしくなってうんざりするでしょうよ。やはり南の殿(紫の上)の御心構えこそ、さまざまに、滅多にないものですが、次にはこちら(花散里)の御心構えなどを、ご立派なものと、私は今まで存じておりました」など、お褒め申し上げられると、女君(花散里)はお笑いになって、「何か手本にまでしてくださっては、私の体裁の悪い評判が表に漏れてしまいそうです。それにしても面白いことは、院(源氏)が、ご自身の好色の御癖を人が知らないかのように、ほんの少し貴方が浮ついた御気持ちを起こしたといってそれが大変なことのようにお思いになり、お諌め申されたり、陰口までもお耳になさるだろうことが、才気ばしった人がかえって自分自身のことはわからないことのように思います」とおっしゃると、(夕霧)「そうなのです。院(源氏)はいつも、とくにこうした色恋の方面についてご説教なさるのです。そのような畏れ多い御教示をいただかなくとも、私はまったくよく自重しておりますのに」といって、本当におかしいとお思いになっておられる。

大将(夕霧)が院(源氏)の御前にお参りになると、院は、例の件(夕霧と落葉の宮の関係)はお耳にされていたが、どうしてわけ知り顔で…とお思いになられて、ただじっと大将をご覧になって、「実に見事に美しく、最近はとくにご成熟されて、男の盛りのようだ。こうした色めいた事をなさったとしても、世間の人が非難するような様子をなさってもいないし、鬼神も罪をゆるすに違いなく、あざやかに、さっぱりと、若く、今が盛りというふうに、美しい色合いをそこらにふりまいていらっしゃる。分別のない若者という年でもまた、いらっしゃらないし、これといった欠点がなく、すっかりご成熟されているのだから、今回のことも無理はない。女の身で、どうしてこれを愛さないだろうか。自分で鏡を見ても、どうして得意げに思わないだろう」とわが御子ながらお思いになる。

語句

■六条院にぞおはして 朝がまだ早いので三条の本邸には帰れない。花散里のすむ六条院東北の町に夕霧の部屋がある(【夕霧 05】)。そこで時間をつぶす。 ■御几帳そへたれど 花散里と夕霧との間を隔てて御簾が下がっており、それに几帳を添えてある。 ■そば 几帳の端。 ■見えたてまつりたまふ 夕霧から花散里の姿が見える。 ■なほ人の言ひなしつべき… 夕霧は花散里に対しては源氏に対してよりは心を開くが、落葉の宮との関係は御息所が生前認めたことだと嘘をつく。 ■亡からむ後の後見に 後見役は実質、夫のこと。夕霧は御息所の「女郎花…」(【夕霧 08】)の歌を根拠に、御息所が自分を後見人(落葉の宮の夫)に指名したのだとしてきた(【夕霧 18】【同同 25】)。 ■もとよりの心ざし 柏木とのよしみ。 ■かく思へたまへなりぬる こうして落葉の宮の世話をしようと思うようになった。 ■かの正身 落葉の宮。 ■何かは どうせ出家するなら私のものになったからといって何の不都合があろうか、ない、の意か。文意不審。 ■こなたかなたに聞きにくくもはべべはを 私が落葉の宮と結婚したら世間から悪く言われるに決まっているが。 ■さやうに嫌疑離れても 落葉の宮がいうとおり出家して、色恋沙汰の疑いが晴れたとしても。 ■かの遺言 御息所が落葉の宮の後見を夕霧に依頼したこと。 ■ただかく言ひあつかひはべるなり 好色めいた気持ちからではなく、ただ世話をしているのだの意。 ■院の渡らせたまへらんにも 夕霧は花散里から源氏に話を通してもらって、落葉の宮との結婚を源氏に認めさせようとしている。 ■ありありて心づきなき心つかふ これまで夕霧が実直に過ごしてきたのに今になって好色めいた気を起こすのが源氏は気に入らないの意。 ■かやうの筋 色恋。 ■人の偽りにや 花散里は夕霧の話は都合のいい嘘がまじっていることを感知するが、正面から批判することはしない。 ■御気色にこそは 下に「あれ」を補う。 ■のどやかにならひたまうて 雲居雁はこれまで夕霧が実直だったので、平穏無事に過ごすことができた。それを今になって覆すのは気の毒
だという気持ちをこめる。 ■鬼しう 「鬼」の形容詞化。 ■さがなもの 口うるさい者。「さがなし」は口うるさい。 ■御ありさまども 六条院では紫の上、明石の君、花散里が、それぞれ源氏の愛を受けながらお互いに反目せずに暮らしている。その状況を考えてくださいと夕霧はいう。 ■つひのこと 最終的にあるべき姿、形。 ■事がましき わざわざ事を荒立てること。 ■それにしも 妻の嫉妬に。 ■事の乱れ出で来ぬる 「事」は浮気沙汰。 ■あきたしや 「飽きたし」は飽き飽きする。ひどくいやである。うんざりする。 ■この御方 花散里は温和な性格で、源氏の愛をすでに諦めている。それが夕霧の目にはおだやかで安定していると映る。 ■この御方 夕霧はほめたつもりだが花散里に対して失礼な物言い。 ■ものの例に引き出でたまふほどに… 夫から冷淡に扱われながら文句も言わない女の例として引かれるのは不名誉である。夕霧の無神経な言葉に花散里は皮肉を返す。 ■さてをかしきことは 夕霧に一言皮肉を言ったがそれ以上は踏み込まず、源氏に話題を転ずる。花散里のバランス感覚が出ている。 ■御癖 好色な癖。 ■いましめ申したまふ 源氏はこれまで夕霧に対して女性のことでたびたび訓戒している(【梅枝 11】【藤裏葉 06】)。 ■後言 陰口。 ■さかしだつ人の己が上知らぬやうに 賢人も自分のことはわからない例と見える。 ■この道 色恋の道。  ■いとよくをさめてはべる 夕霧の落葉の宮に対する執着は常軌を逸しており、とても「おさめて」いるとはいえないのだが、夕霧はそれを花散里の前では語らない。 ■かの事 夕霧が落葉の宮を一条宮に移しそこに通っているということ。 ■何かは聞き顔にも 下に「あらむ」を補い読む。 ■ねびまさりたまへる 夕霧ニ十九歳。 ■鬼神 荒々しく恐ろしい神。 ■罪 好色の罪。 ■かたほなるところ 欠点。 ■女にて、… 落葉の宮も夕霧を愛しているに違いないと源氏は考える。親バカここに極まる。

朗読・解説:左大臣光永