【御法 01】紫の上の病長期化 出家を願うも源氏、許さず
紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後《のち》、いとあつしくなりたまひて、そこはかとなく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。いとおどろおどうしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思《おも》ほし嘆くこと限りなし。しばしにても後《おく》れきこえたまはむことをばいみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽かぬことなく、うしろめたき絆《ほだし》だにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御|命《いのち》とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心の中《うち》にもものあはれに思されける。後《のち》の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、いかでなほ本意《ほい》あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは行ひを紛れなくと、たゆみなく思しのたまへど、さらにゆるしきこえたまはず。さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて同じ道にも入りなんと思せど、一《ひと》たび家を出でたまひなば、仮にもこの世をかへりみんとは思しおきてず。後の世には、同じ蓮《はちす》の座をも分けんと契りかはしきこえたまひて、頼みをかけたまふ御仲なれど、ここながら勤《つと》めたまはんほどは、同じ山なりとも、峰を隔ててあひ見たてまつらぬ住み処《か》にかけ離れなんことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに悩みあついたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行《ゆ》き離れんきざみには棄《す》てがたく、なかなか山水の住み処《か》濁りぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる思ひのままの道心《だうしん》起こす人々には、こよなう後れたまひぬべかめり。御ゆるしなくて、心ひとつに思し立たむも、さまあしく本意《ほい》なきやうなれば、この事によりてぞ、女君は恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪|軽《かろ》かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。
現代語訳
紫の上は、ひどくお患いになったご病気の後、重くおなりで、何となく体調が悪くていらっしゃることが長くなられた。それほど重いご病状というわけではないが、年月が重なるにつれて、頼もしげなく、いよいよか弱くなっていかれるのを、院(源氏)がご心配して悲しまれることは限りがない。院(源氏)は、ほんの少しでも紫の上が亡くなった後、ご自分が生きていらっしゃることを辛いことにちがいないとお思いになるし、また紫の上ご自身のお気持ちとしては、この世に未練はなく、気にかかる者もいない御身なので、むやみに生き続けたい御命ともお思いにならないが、院(源氏)との長年の御夫婦の契を離れて、院をお悲しませ申し上げることだけが、誰にも言えないお気持ちの中にも、なんとなくいたわしくお思いになるのだった。後の世のためにと、尊い仏事などを多く行わせなさっては、どうにかしてやはり望みどおり出家をとげて、ほんの短い間でもこの世に関わっている間は、仏事の行いをお心乱されることなく行おうと、いつもそう思いおっしゃるけれど、院はまったくお許し申されない。というのは、院ご自身のお気持ちとしても、出家をしようとすでに思い立っていることなので、こうして紫の上が熱心にご出家を願われるついでにご自身も発起して、同じ道にも入ろうかともお思いになるが、一度ご出家なされば、かりそめにも俗世のことを顧みることはするまいと覚悟を決めていらっしゃる。後の世には、同じ蓮の座を分け合おうともお互いにお約束申し上げられて、頼みをかけていらっしゃるご夫婦仲ではあるが、この世で仏事のお勤めをなさるうちは、たとえ同じ山でも、峰を隔てて、お会い申し上げることない住処に離れてしまうおつもりであるから、紫の上がこんなにもひどく弱わしい様子で、ご病状が重くなられると、いよいよ世を離れようという段になると見棄てがたく、かえって出家した後の山水の住処が現世への執着心で濁ってしまうに違いないと、躊躇していらっしゃるうちに、ただ浅はかな思いにまかせて道心を起こす人々にも、ひどく後れをとってしまわれそうである。院(源氏)の御ゆるしがないまま
、ご自身のご一存で出家を決意なさるのも、具合が悪く不本意なようなので、まさにこの事によって、女君(紫の上)は院(源氏)のことを恨めしく存じ上げなさる。ご自身の御身についても、前世からの罪障が重いのだろうかと、ご心配されるのだった。
語句
■いたうわづらひたまひし 四年前、紫の上は六条院における女楽の直後発病した(【若菜下 24】)。一度は六条御息所の生霊により息絶えた(【若菜下 28】)。 ■いとおどろおどろしうはあらねど これといった重い病状もないが、よくもならない状態。 ■いとどあえかに 「あえか」は弱々しく頼りないさま。 ■しばしにても後れきこえまはむことをば… 前に紫の上は源氏に出家の意味を示したが、源氏は後に残される寂しさを訴えて、紫の上が出家することを許さなかった(【若菜下 08】、【若菜下 22】)。 ■うしろめたき絆 紫の上に子がないことをいう。 ■人知れぬ 秘かにの意。 ■いかでなほ 前々から紫の上は出家を望んでいたが、どうにかしてその願いを遂げたい。 ■本意あるさま 出家の生活。 ■かかづらはむ命のほど 今生と縁が切れずに生きている間。 ■しか思しそめたる筋 源氏ははやくから出家の意思を持っていたが、「今は本意も遂げなん」(【藤裏葉 11】)とあるのが出家の意思が確定した時と見える。 ■この世をかへりみんとは… 出家したら俗世のことを顧みないのが当時のたてまえ。朱雀院などはだいぶ顧みていたが…。 ■同じ蓮の座を分けん 極楽往生した人は蓮の座に、前世で同じく修行した人と座を分け合うという。 ■あついたまへれば 「篤(あつ)ゆ」は病が重くなる。 ■今はと 今生ではもう会わないと出家する時。 ■山水の住み処 山水の清いところで修行していても紫の上のことが気になって世俗への執着心を捨てられないでは往生のさまたげとなる。 ■あさへたる 「浅ふ」は浅はかである。思慮が足りない。 ■思ひのままの道心 自分本位な、身勝手な道心。 ■この事によりてぞ 「この事」は源氏が出家を許さないこと。 ■わが御身をも 出家の願いが叶わないのは紫の上自身が前世からの罪が深いからと考える。 ■法華経千部 法華経一部は八巻、二十八品。 ■わが御殿と思す 二条院は紫の上が成人した場所であり彼女の故郷である。正式に相続したかは不明だが紫の上自身はそうした意識でいる。前も「わが御わたくしの殿と思す二条院」(【若菜上 21】)とあった。 ■七僧 奉仕に当たる僧。講師、読師(経文などを読む)、三礼師(さんらいし。読経のはじめに三度礼拝する)、唄師(ばいし。経文や偈頌を唱詠する)、散華師(さんげし。花を散布して仏を供養する)、堂達師(どうだつし。導師・呪願師に経文・祈願文を伝達する)の七僧。