【若菜上 21】紫の上の薬師仏供養と二条院における精進落しの祝宴

神無月《かむなづき》に、対の上、院の御賀に、嵯峨野《さがの》の御堂にて薬師仏供養《やくしぼとけくやう》じたてまつりたまふ。いかめしきことは、切《せち》に諌《いさ》め申したまへば、忍びやかにと思しおきてたり。仏《ほとけ》、経箱、帙簀《ぢす》のととのへ、まことの極楽思ひやらる。最勝王経《さいそわうきやう》、金剛般若《こんがうはんにや》、寿命経《ずみやうきやう》など、いとゆたけき御祈りなり。上達部《かむだちめ》いと多く参りたまへり。御堂のさまおもしろく言はむ方なく、紅葉《もみぢ》の蔭《かげ》分けゆく野辺《のべ》のほどよりはじめて見物《みもの》なるに、かたへはきほひ集《あつ》まりたまふなるべし。霜枯《しもが》れわたれる野原のままに、馬車《むまくるま》の行きちがふ音繁《おとしげ》く響きたり。御|誦経《ずきやう》、我も我もと御方々いかめしくせさせたまふ。

二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間《すきま》なく集《つど》ひたまへる中《うち》に、わが御わたくしの殿《との》と思す二条院にて、その御|設《まう》けはせさせたまふ。御|装束《さうぞく》をはじめおほかたの事どももみなこなたにのみしたまふを、御方々も、さるべき事ども分けつつ望み仕うまつりたまふ。対どもは、人の局《つぼね》々にしたるを払ひて、殿上人、諸大夫《しょたいふ》、院司《ゐんじ》、下人《しもびと》までの設《まう》け、いかめしくせさせたまへり。寝殿の放出《はなちいで》を、例のしつらひて、螺鈿《らでん》の倚子《いし》立てたり。殿《おとど》の西の間《ま》に、御|衣《ぞ》の机《つくゑ》十二立てて、夏冬の御|装《よそ》ひ、御|衾《ふすま》など例のごとく、紫の綾《あや》の覆《おほ》ひどもうるはしく見えわたりて、内《うち》の心はあらはならず。御前に置物《おきもの》の机|二《ふた》つ、唐《から》の地の裾濃《すそご》の覆ひしたり。挿頭《かざし》の台は沈《ぢん》の華足《くゑそく》、黄金《こがね》の鳥、銀《しろがね》の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎《しげいさ》の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。背後《うしろ》の御|屏風《びやうぶ》四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける、いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき山水《せんずい》、潭《たん》など、目馴れずおもしろし。北の壁にそへて、置物の御厨子《みづし》二具《ふたよろひ》立てて、御|調度《てうど》ども例のことなり。南の廂《ひさし》に上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りたまはぬ人なし。舞台《ぶたい》の左右に、楽人《がくにん》の平張《ひらばり》うちて、西東《にしひむがし》に屯食《とんじき》八十|具《ぐ》、禄《ろく》の唐櫃《からびつ》四十づつつづけて立てたり。

未《ひつじ》の刻《とき》ばかりに楽人参る。万歳楽《まんざいらく》、皇麞《わうじやう》など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗《こま》の乱声《らんじやう》して、落蹲《らくそん》の舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひはつるほどに、権中納言|衛門督おりて、入《い》り綾《あや》をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入りぬるなごり、飽かず興ありと人々思したり。いにしへの朱雀院の行幸に、青海波《せいがいは》のいみじかりし夕《ゆふべ》、思ひ出でたまふ人々は、権中納言衛門督のまた劣らずたちつづきたまひにける、世々のおぼえありさま、容貌用意などもをさをさ劣らず、官位はやや進みてさへこそなど、齢《よはひ》のほどをも数へて、なほさるべきにて昔よりかくたちつづきたる御仲らひなりけり、とめでたく思ふ。主《あるじ》の院も、あはれに涙ぐましく、思し出でらるることども多かり。

夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所《まんどころ》の別当《べたう》ども、人々ひきゐて、禄《ろく》の唐櫃《からびつ》によりて、一つづつ取りて、次々賜ふ。白きものどもを品々《しなじな》かづきて、山際《やまぎは》より池の堤《つつみ》過ぐるほどのよそ目は、千歳《ちとせ》をかねてあそぶ鶴《つる》の毛衣《けごろも》に思ひまがへらる。御遊びはじまりて、またいとおもしろし。御|琴《こと》どもは、春宮《とうぐう》よりぞととのへさせたまひける。朱雀院より渡り参れる琵琶《びわ》、琴《きん》、内裏《うち》より賜はりたまへる箏《さう》の御|琴《こと》など、みな昔おぼえたる物の音《ね》どもにて、めづらしく掻《か》き合はせたまへるに、何のをりにも過ぎにし方の御ありさま、内裏《うち》わたりなど思し出でらる。「故入道《こにふだう》の宮おはせましかば、かかる御賀など、我こそ進み仕うまつらましか、何ごとにつけてかは心ざしをも見えたてまつりけむ」と、飽かず口惜しくのみ思ひ出できこえたまふ。

内裏《うち》にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにもはえなくさうざうしく思さるるに、この院の御事をだに、例《れい》の、跡《あと》あるさまのかしこまりを尽くしてもえ見せたてまつらぬを、世とともに飽かぬ心地したまふも、今年《ことし》はこの御賀にことつけて行幸《みゆき》などもあるべく思しおきてけれど、「世の中のわづらひならむこと、さらにせさせたまふまじくなむ」と辞《いな》び申したまふことたびたびになりぬれば、口惜しく思しとまりぬ。

現代語訳

神無月に、対の上(紫の上)は、院(源氏)の御賀のために、嵯峨野の御堂で薬師仏を供養し申しあげなさる。

おおげさな事は、院(源氏)がかたくお止め申されるので、ひっそりやろうとご計画になられた。仏像、経箱、帙簀《ぢす》などがととのっていることは、ほんとうの極楽が思いやられるほど立派なものだ。最勝王経、金剛般若、寿命経など、まことに盛大な御祈祷である。上達部がとても多く参詣された。御堂のようすは言いようもなく風情があり、紅葉の蔭を分けて行く野辺のあたりからをはじめとして、あらゆるものが見どころであるので、人々は競うように集まっていらっしゃるのだろう。一面霜枯れている野原から邸内は地続きで、馬・車の行き交う音がやかましく響いている。六条院の御方々は、御誦経にあたった僧たちへの御布施を、我も我もと仰々しくなさる。

二十三日を御精進落ちの日として、六条院は、このように人々が集まっていらっしゃって隙間もないので、上(紫の上)が、ご自分の私邸のようにお考えになっておられる二条院で、その御準備をなさる。御装束をはじめ、ひととおりの事どもも、みなこちらの二条院でばかりなさっているのが、御方々も、しかるべき用事を分担しつつ、自ら望んでお手伝いをしていらっしゃる。いくつかの対の屋は、女房たちの局にしてあったのを取り払って、殿上人、諸大夫、院司、下人までのお席を、立派におととのえになった。寝殿の放出《はなちいで》を、通例どおりにしつらえて、螺鈿でかざった倚子《いし》を立てている。寝殿の西の間に、御衣を置く机を十ニ脚立てて、夏と冬のお召し物、御衾なども通例にしたがって、紫の綾の多くの覆いも整然と並んで見え、その内側の趣向は、外からははっきり見えない。院(源氏)の御前に置物の机二脚立て、唐の地の裾濃の覆いをしている。挿頭《かざし》の台は沈の華足で、黄金づくりの鳥が銀の枝にとまっている趣向などは、淑景舎(明石の女御)のご担当で、明石の御方がなさったことで、由緒深く格別な心ばえである。

院(源氏)の背後の御屏風四帖は、式部卿宮がご準備なさったのだ。たいそう風情を尽くして、ふつうの四季の絵であるが、めずらしい山水や淵など、目に真新しくおもしろい。北の壁にそえて、置物の御厨子をニ揃い立てて、多くのお道具類をそれに載せてあるのも通例によっている。南の廂の間に上達部、左右の大臣、式部卿宮を御はじめとして、それより位の劣る人びとはまして参詣なさらない人はない。舞台の左右に、楽人が控える平張を造り、西と東に屯食八十具、禄を入れた唐櫃四十つづけて立ててある。

未の刻ごろに楽人が参る。万歳楽《まんざいらく》、皇麞《わうじやう》などを舞って、日が暮れかかるころに、高麗楽の乱声を奏して、落蹲《らくそん》を舞い始めたようすは、やはりいつもは見馴れぬ舞のようすであるので、舞終わるころに、権中納言(夕霧)と衛門督(柏木)が舞台におりて、入り綾をほんの少し舞って、紅葉の蔭に入った余韻は、いつまでも見ていたいほど興あるものと人々はお思いになっていらっしゃる。

昔の朱雀院の行幸の折に、青海波の舞がすばらしかった夕べのことをお思い出しになる人々は、今、権中納言(夕霧)と衛門督(柏木)が、かつての源氏と頭中将にも劣らず立派に跡をお継ぎになられたこと、父子ニ代にわたる名声も、容貌も、態度などもほとんど劣らず、官位は少し先に進んでさえいることなど、年齢のほども考えると、やはりしかるべき運命として、こうして昔から立派な方々が代々つづくことになっている御両家の間柄であったのだ、とめでたく思う。主人である院(源氏)も、しみじみと涙ぐましく、自然とお思い出されることが多いのだ。

夜に入って、楽人たちが退出する。北の政所(紫の上)の職員たちが、召使いたちをひきつれて、禄の入った唐櫃のそばに寄り、一つずつ取り出して、次々とお与えになる。白い衣のいくつかを肩にかけて、築山のそばを通って池の堤の上を行く時のさまを遠くから見ると、まるであの、千歳の寿命を予期して遊ぶ鶴の羽毛のように思われる。管弦の御遊びがはじまって、また大変に風情がある。

数々の御琴は、東宮よりご調達なされたものである。朱雀院よりお譲りのあった琵琶、琴、帝(冷泉帝)より賜られた箏の御琴など、みなそれぞれ昔が思い出される音色で、院(源氏)ご自身も、めずらしく合奏なさるにつけ、何の折にもまさって昔の桐壷院ご在世中の御ようす、宮中のことなどがついお思い出しになられる。(源氏)「故入道の宮(藤壺宮)がご存命であられたら、こうした御賀などは、私こそが進んでお手伝い申しあげたところであるのに。当時何につけても私の気持ちを御覧いただける機会はなかった」と、返す返すも残念なこととばかりお思い出し申しあげなさる。

帝(冷泉帝)におかせられても、故宮(藤壺宮)がいらっしゃらないことを、何事にもはりあいがなく、物足りなくおぼしめされるので、せめてこの院(源氏)の御ことだけでも、世間並みの、父親に対する礼をつくして御覧に入れたいとお思いになられるが、それがおできにならないことを、いつもご不満でいらっしゃるにつけ、今年はこの御賀にことよせて行幸などもあるべく計画していらしたが、院(源氏)が、「世間の迷惑となるようなことは、けしてなさってはなりません」と何度もご辞退申されたので、残念ながらお思いとどまりになられた。

語句

■嵯峨野の御堂 源氏が造営した堂(【絵合 11】【松風 02】【同 06】【同 09】【同 12】)。 ■薬師仏 医療に関係した如来。源氏の四十の賀に長寿を祈るため供養する。 ■帙簀 経巻を包む帙《ちつ》(おおい・ブックカバー)。 ■最勝王経… 金光最勝王経・金剛般若波羅蜜多経・仏説一切如来金剛寿命陀羅尼。主に鎮護国家についての経文だが故人の無病息災のためにも誦経する。 ■ゆたけき 「ゆたけし」は盛大。 ■かたへはきほひ集まりたる 「かたへ」は仲間・同輩。ここでは源氏にゆかりのある人々。その人々は物見遊山がてらに集まったのだろうの意。 ■御誦経 誦経した僧たちへの布施。 ■御としみの日 精進落ち・精進明けの日。精進潔斎の期間が終わり普段の生活にもどる。二十三日は源氏にとり特別な日らしい。誕生日か。 ■二条院 六条院は愛妾たちがいるので、紫の上は遠慮して私邸と考える二条院で御賀を催す。二条院は紫の上が幼少から二十六、七歳までをすごした場所。須磨退去の折、源氏が財産を紫の上に贈与した時に与えられたのだろう。 ■諸大夫 親王・摂関・大臣などの家に仕える四位・五位の家柄の者。 ■院司 院の御所に仕える職員。 ■放出 未詳。建物の一部をさす名称らしい。 ■倚子 玉鬘主催の賀の時は倚子を立てなかった(【若菜上 12】)。 ■綾 模様を織りだした絹布。 ■唐の地の裾濃 中国渡来の絹を下に行くにつれて濃く染めたもの。  ■挿頭の台 頭に飾る造花を載せる台。 ■沈の華足 沈香で作り花の形に彫刻した机の脚。 ■式部卿宮 紫の上の父。 ■四季の絵 参考「尚侍の、右大将藤原朝臣の四十の賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりける歌/春日野に若菜つみつつ万代をいはふ心は神ぞ知るらむ」(古今・賀 素性)。この尚侍は藤原定国の妹満子。 ■置物の御厨子 置物をならべる置戸棚。二段になっていて下段には扉がある。 ■楽人 玉鬘主催の賀では朱雀院病気のため楽人は召されなかった。 ■平張 楽屋として建てた仮屋。四方を囲み、上を布で覆う。 ■屯食 強飯《こわいい》を握り固めて卵型に盛り上げたもの。身分の低い者に供される。 ■禄の唐櫃 禄の入った唐櫃。櫃は四脚つきの箱。 ■未の刻 午後ニ時頃。 ■万歳楽 雅楽の曲名。祝い事の時舞う。四人で舞う。 ■皇麞 舞楽の曲名。童舞。 ■高麗の乱声 高麗楽を笛で吹き続けることか。 ■落蹲 高麗楽の曲。二人または一人で、面をつけ、桴を持って舞う。 ■入り綾 舞楽が終わって舞人が退場するとき、ふたたび綾をつけて面白く舞うこと。アンコール。 ■いにしへの朱雀院の行幸 【紅葉賀 01】【同 03】【藤裏葉 15】(回想)。 ■青海波 朱雀院行幸の試楽として若き日の源氏と頭中将が桐壷帝の前で舞った(【紅葉賀 01】)。 ■また劣らず 源氏と太政大臣(当時の頭中将)とに。 ■官位はやや進みて 朱雀院行幸の時、源氏は近衛中将、太政大臣は頭中将で、ともに従四位下相当官。その夜それぞれ正三位、正四位下に昇った。権中納言(夕霧)は従三位相当官。衛門督(柏木)は従四位下相当官。行幸の時点では、夕霧と柏木は、源氏と太政大臣よりも官位が高かったわけである。 ■齢のほどをも数へて 夕霧十九歳、柏木二十五、六歳。 ■北の政所 北の対にある家政事務所。ただし女三の宮の降嫁により紫の上は正妻でなくなっているので不審。 ■白きものども 白い大袿。禄用に大きめ仕立ててあり、着用するときは裁断して使う。禄は左肩にかける。 ■千歳をかねてあそぶ 「席田《むしろだ》の、席田の、伊津貫川《いつぬきがは》に、や、住む鶴の、住む鶴の、や、住む鶴の、千歳をかねてぞ、遊びあへる、千歳をかねてぞ、遊びあへる」(催馬楽・席田)による。長寿を祈る算賀の席にふさわしい情景。 ■春宮より 東宮は源氏と縁が深い。もともと東宮が源氏の養育を受けていたこと(【澪標 11】)、源氏が養育した明石の女御が入内したこと、東宮の異母妹である女三の宮が源氏に降嫁していること、また今回の賀は明石の女御の母儀である紫の上の主催であるから、いっそう精を込めて東宮は加勢するのである。 ■朱雀院より 朱雀院は東宮の父。東宮は父朱雀院から贈られた琵琶・琴を源氏のもとに贈ったのである。 ■昔おぼえたる 古くから伝わる名器なので。宮中に生まれ育った源氏は桐壺院時代のことを思い出して、なつかしい。 ■過ぎにし方 桐壷院の在世中。 ■故入道の宮 藤壺宮は八年前、三十七歳で崩御(【薄雲 11】)。 ■何ごとにつけて 藤壺宮は源氏との密通がばれることをはばかり源氏を避けていた。なので源氏は誠意を示す機会がなかった。源氏はそれを悔いている。 ■例の 冷泉帝は夜居の僧都の密告により、源氏が自分の父親であることを知った(【薄雲 13】)。しかし世間をはばかって父としての礼を尽くすことはできない。昨年の六条院行幸も帝として行った。 ■今年は 「明けむ年四十になりたまふ。御賀の事を、朝廷よりはじめたてまつりて、大きなる世のいそぎなり(【藤裏葉 12】)。 ■世の中のわづらひ 天皇の行幸となると出費もかさみ庶民に迷惑がかかる。

朗読・解説:左大臣光永