『古事記』第26回 神武東征(一)

こんにちは。左大臣光永です。

11月に静岡で忠臣蔵の話をするので、堀部安兵衛について調べています。驚いたことに、史料がほとんど見つかりません。堀部安兵衛のことは小説や映画で面白おかしく描かれているけれど、歴史上実在した堀部安兵衛の人物に迫ろうとすると、ほとんど、なにも手がかりがないことにビックリです。

さて本日は『古事記』の第26回「神武東征(一)」です。

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ウガヤフキアヘズから生まれた兄弟、神倭伊波礼毘古命《かむやまといわれびこのみこと》とその兄五瀬命《いつせのみこと》は、高千穂宮にいましたが、天下を治めるのによりよい地を求めて、東へ向かいます。

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東征の始まり

神倭伊波礼毘古命《かむやまといわれびこのみこと》と其《そ》のいろ兄《ね》五瀬命《いつせのみこと》とのニ柱《ふたはしら》は、高千穂《たかちほ》の宮に坐《いま》して議《はか》りて云《い》はく、

「何地《いづく》に坐《いま》さば、平らけく天《あめ》の下の政《まつりごと》を聞こし看《め》さむ。猶《な》ほ東《ひむかし》へ行かむと思ふ」

即ち日向《ひむか》より発《た》ちて、筑紫《ちくし》に幸行《いでま》しき。故《かれ》、豊国《とよくに》の宇沙《うさ》に到りし時、其の土人《くにひと》、名は宇沙都比古《うさつひこ》・宇沙都比売《うさつひめ》の二人、足一騰宮《あしひとつあがりのみや》を作りて、大御饗《おほみあへ》に献《たてま》つる。

神倭伊波礼毘古命《かむやまといわれびこのみこと》と母を同じくする兄五瀬命との二柱の兄弟は、高千穂宮にいまして相談して言った。

「どこにいませば、平らかに天下の政を治めることができるだろう。やはり東に行こうと思う」

すぐに日向を出発して、筑紫に行幸した。さて、豊国の宇沙に到った時に、その地元の人である、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人が、足一騰宮《あしひとつあがりのみや》を造って、ごちそうを献上した。

■いろ兄 母を同じくする兄。 ■豊国の宇沙 現大分県宇佐。 ■足一騰宮 高床式の建物で、四本の脚のうち三本が斜面に面して短く、一本が川に突き出して長く出ていた。

神武東征
神武東征

槁根津日子《さをねつひこ》

其地《そこ》より遷移《うつ》りて、竺紫《つくし》の岡田宮《おかだのみや》に一年《ひととせ》坐《いま》しき。亦《また》、其《そ》の国より上《のぼ》り幸《いでま》して、阿岐国《あきのくに》の多祁理宮《たけりのみや》に七年《ななとせ》坐しき。

亦、其の国より遷《うつ》り上《のぼ》り幸《いでま》して、吉備の高島宮《たかしまのみや》に八年《やとせ》坐しき。

その地から移って、竺紫《つくし》の岡田宮《おかだのみや》に一年いらっしゃった。また、その国より上っていらっしゃって、阿岐国《あきのくに》の多祁理宮《たけりのみや》に七年いらっしゃった。

また、そのより移り登っていらっしゃって、吉備の高島宮《たかしまのみや》に八年いらっしゃった。

■竺紫《つくし》の岡田宮 所在地不明。 ■阿岐国《あきのくに》の多祁理宮《たけりのみや》 「阿岐国」は現広島県。「多祁理宮」は所在地不明。 ■吉備の高島宮《たかしまのみや》 「吉備」は現岡山県。「高島宮」は所在地不明。岡山県高島に顕彰碑が立つ。

故《かれ》、其の国より上《のぼ》り幸《いでま》しし時に、亀の甲《せ》に乗りて、釣を為《し》つつ打ち羽挙《はふ》り来る人、速吸門《はやすいのと》に遇《あ》ひき。

爾《しか》くて喚《よ》び帰《よ》せて問ひしく、

「汝《なむち》は誰《たれ》ぞ」

答えて曰ひしく、

「僕《やつかれ》は、国つ神ぞ」

又、問ひしく。

「汝《なむち》は、海道《うみぢ》を知れりや」

答へて曰ひしく、

「能《よ》く知れり」

又、問ふ。

「従ひ仕え奉《まつ》らむや」

答へて曰く、

「仕え奉《まつ》らむ」

故《かれ》爾《しか》くして、槁機《さを》を指し渡し、其の御船《みふね》を引き入れて、即ち名を賜《たま》ひて槁根津日子《さをねつひこ》と号《なづ》けき。[此《これ》は、倭国造等《やまとのくにのみやつこら》が祖《おや》ぞ]

さて、その国から上っていらっしゃる時に、亀の甲羅に乗って、釣をしつつ打ち袖を振って近づいてくる人、速吸門《はやすいのと》で出会った。

そこで呼び寄せて質問した。

「お前は誰だ」

答えて言った。

「私は、国つ神です」

また、質問した。

「お前は海の道を知っているか」

答えて言った。

「よく知っています」

また、質問した。

「私に従って仕え申すか」

答えて言った。

「仕え申しましょう」

そこでこうして、竿を指し渡して、その船を引き入れて、すぐに名を賜って、槁根津日子《さをねつひこ》と名付けた。[これは、倭国造等《やまとのくにのみやつこら》の祖先である]

五瀬命の戦死

故《かれ》、其の国より上《のぼ》り行《ゆ》きし時に、浪速《なみはや》の渡《わたり》を経て、青雲《あをくも》の白肩津《しらかたのつ》に泊《は》てき。

此《こ》の時、登美能那賀須泥毘古《とみのみながすねびこ》、軍《いくさ》を興《おこ》し、待ち向《むか》へて戦ひき。爾《しか》くして、御船《みふね》に入れたる楯を取りて、下《お》り立ちき。故《かれ》、其地《そこ》を号《なづ》けて楯津《たてつ》と謂ひき。今には、日下《くさか》の蓼津《たでつ》と伝《い》ふ。

是《ここ》に、登美毘古《とみびこ》と戦ひし時に、五瀬命《いつせのみこと》、御手《みて》に登美毘古が痛矢串《いたやぐし》を負ひき。故《かれ》、爾《しか》くして詔《のりたま》ひしく、

「吾《あれ》は、日の神の御子《みこ》と為《し》て、日に向ひて戦ふこと、良くあらず。故《かれ》、賤しき奴《やっこ》が痛手を負ひつ。今よりは、行き廻りて背に日を負ひて撃たむ」

と期《ちぎ》りて、南の方より廻り幸《いでま》しし時、血沼海《ちぬのうみ》の水門《みなと》に到りて其の御手《みて》の血を洗ひき。

故《かれ》、血沼海と謂ふ。

其地《そこ》より廻り幸《いでま》して、紀国《きのくに》の男之水門《おのみなと》に到りて、詔《のりたま》ひしく、「賤しき奴《やっこ》が手を負ひてや死なむ」と、男建《をたけ》びして崩《さ》りましき。

故《かれ》、其の水門《みなと》を号《なづ》けて男水門《をのみなと》と謂ふ。陵《はか》は、即ち紀国《きのくに》の竃山《かまやま》に在《あ》り。

さて、その国(播磨国)から上がり行った時に、浪速(なみはや)の渡を経て、(青雲の)白肩津《しらかたのつ》に船を泊めた。この時に、登美能那賀須泥毘古《とみのみながすねびこ》が軍勢を率いて、待ち構えていて向かってきたので、戦った。

その時、神倭伊波礼毘古命《かむやまといわれびこのみこと》は船におさめている楯を取って、船から下りて地面に立った。そこで、そこを名付けて楯津《たてつ》といった。今には日下《くさか》の蓼津《たでつ》という。

この時、登美毘古《とみびこ》と戦った時に、五瀬命《いつせのみこと》は御手に登美毘古《とみびこ》矢を受けて痛手を追った。そこで五瀬命は仰せになった。

「私は日の神の御子として、日に向かって戦うことは、よくなかった。だから、卑しき土民から痛手を負ったのだ。今後は、行き巡って、背に日を負って撃とう」と、約束して、南の方角から巡って行かれた時に、地沼海《ちぬのうみ》に到って、その御手の血を洗った。それで血沼海というのだ。

そこより巡り行かれて、紀の国の男之水門《をのみなと》に到って、仰せになった。

「卑しき土民の手を負って死んでいくことよ」

そう雄叫びして、お隠れになった。

それで、その水門を名付けて男水門《をのみなと》という。五瀬命の陵は、まさに亡くなった場所である紀の国の龜山にある。

■日下《くさか》の蓼津《たでつ》 「日下」は東大阪市日下町あたり。現在、五瀬命負傷碑が立つ。「蓼津」は不明。 ■血沼海 和泉国に面した海。 ■紀の国の男之水門 大阪府泉南市男里《おのさと》。 ■龜山 和歌山市和田。龜山神社に彦五瀬命竈山墓がある。

神武東征
神武東征

次回「古事記(二十七)神武東征(ニ)」に続きます。お楽しみに。

語り継ぐ日本神話 神代篇・人代篇
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朗読・解説:左大臣光永

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